classics-disco’s blog

西洋古典学を学ぶ一学生のブログ

眼潰しは幸せか?──『春琴抄』と『オイディプス王』

お師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはございませぬ  

 

佐助それはほんとうか 

 

佐助はこの世に生まれてから後にも先にもの沈黙の数分間ほど楽しい時を生きたことがなかった

春琴抄』より

 

なにとて眼明きであることがあろう、眼が見えたとて何一つ楽しいことが見えぬおれに

オイディプス王』より

 

 自分で自分の眼を潰す

  恐ろしい想像である。考えただけでもぞっとするが、作家というのはそんなおぞましい想像をさせるように強いるものだ。例えば、谷崎潤一郎の『春琴抄』。初めて谷崎潤一郎春琴抄』を読んだ高校生の僕は「なんだ変態おやじの話じゃないか」と半ば呆れてしまったのだがこの小説はそれで終わらせるわけにはいかない。

 

 あらすじを言うと、ある佐助という名の男が、春琴という盲目の女性の使用人となり、恋仲になり彼女に尽くしまくる、というお話である。余談だが谷崎の有名な足フェチ描写はこの小説にもある。佐助が春琴の身体の如何に美しいかを周りに自慢する際、

 

しばしば[自分の]掌を伸べてお師匠様の足はちょうど此の手の上へ載るほどであった我が頬を撫でながら踵の肉でさえ己の此処よりはすべすべで柔らであった

 

と語っている。

 

 さて、そんな時春琴にある事件が起きる。何者かが屋敷に侵入し、彼女に「有り合わせたる鉄瓶」を投げつけ彼女の顔に大やけどを負わせたのだ。慌てて佐助が彼女のもとへ駆け寄ると彼は暗がりの中彼女の顔が変貌していることに気が付くが、彼はそれから眼をそらし「見ていません」と春琴に告ぐ。

 

佐助は当夜枕元へ駆け付けた瞬間焼け爛れた顔を一と見たことは見たけれども正視するに堪えずして咄嗟に顔を背けたので...何か人間離れした怪しい幻影をみたかのような印象が残ってるにすぎず...春琴が見られるのを恐れた如く佐助も見るのを恐れたのであった。

 

 佐助はここで眼を背けたのだ。そして彼はこれからも春琴の傍に仕えるために自らも盲目となることを決意する。二度と彼女の醜くなった顔を水に美しかった顔を永遠に記憶に留めようとした。

 

針を以て左の黒眼を突いてみた...黒眼は柔らかい二三度突くと巧い具合にずぶと二分程這入ったと思ったら忽ち眼球が一面に白濁し視力が失せていくのがわかった。

 

 そして彼は春琴に喜びを抑えきれずに告ぐ。

 

お師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはございませぬ  

 

春琴は「佐助それはほんとうか」と言い沈黙する。この沈黙を以て、佐助は、春琴が自分の行動を喜んでいると確信する、そして 

佐助はこの世に生まれてから後にも先にもこの沈黙の数分間ほど楽しい時を生きたことがなかった

と幸せを噛みしめるのだった。

 

 ギリシア悲劇──『オイディプス王

 佐助は真実から眼を背けることで幸せを手にした。その一方で真実を直視した者がいる。ソフォクレスオイディプス王』は、最も有名なギリシア悲劇の一つだ。これはギリシア神話に登場する英雄オイディプス王が自らの出自を探っていくと自分は自らの父を殺し母を妻にしていたことが判明し、絶望した彼は自分の目を突き刺してしまう、という悲劇である。オイディプスも自分が実の父を殺し、実の母と結婚していたという現実を受け止められず、その事実が判明した瞬間、彼はイオカステ(オイディプスの母であり妻)を殺そうとした。しかし彼は彼女が縊死しているのを目撃すると彼女の髪留めで自らの眼を突き、叫ぶ。

 

アポロンだ、友よ、アポロンだ、この、おれのにがいにがい苦しみを成就させたのは。」

 

この言葉はアポロンの神託、つまり「お前は父を殺し母と結婚する」が、オイディプスの懸命な努力にも拘わらず成就してしまったことを表わしている。しかし、彼はこう続ける

 

だが眼をえぐったのは、誰でもない、不幸なこのおれの手だ

 

 

 これを読んでいると、オイディプス王と『春琴抄』の佐助は同じく自ら眼を潰した者たちであるが彼らはまさしく真逆の感情であることがわかる。佐助はこの上ない幸福に包まれているがオイディプスは嘆きのどん底にいる。この二つの文学作品に共通するのは「人は真理を直視できない」という思想ではないか。佐助は眼を潰すことで彼女の顔を永遠に美しいものにすることを選んだ。しかし本来、人を愛することということはその人のすべてを受け入れることである。だが佐助にはそれができなかった。彼にとって恋い慕うお師匠様の顔が爛れたという現実を見ることは彼の人生の破滅をも意味していたのだ。その反対にオイディプスは真理──つまり彼自身の罪であり穢れ──を正視したがために盲目にならざるを得なかった。

 

 真実から眼を背け幸せに生きた佐助と、真実を直視し眼から血を垂らしながら国を追放されたオイディプス。さて、どちらが幸せだろう。

 

春琴抄 (新潮文庫)

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ギリシア悲劇〈2〉ソポクレス (ちくま文庫)

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ソポクレス オイディプス王 (岩波文庫)

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