恋に焦がれるエコーとクールなナルキッソスの神話
ラテン語の初級文法を春~冬学期にかけて終えたので、力試しにオウィディウスの『メタモルフォーセース』(変身物語、転身物語などと訳されている)を読んでいる。これまで3.339~401まで読み進めた。ここまでの話をざっくり要約してみる。
ある所にナルキッソスという美男子が生まれた。彼は占い師にこう告げられる──「自分のことを知らなければ長生きできるだろう」と。ナルキッソス君は男からも女からもモテモテで、ついにはニンフ(妖精?)であるエコーすら恋に落ちる。このエコーは昔、ユーノー(ヘラ)女神の怒りを買って同じことを繰り返すことしかできなくなったのだ。彼女は迷子になっているナルキッソスを見かける。勢いあまって彼に抱き着くも拒否されたエコーは、失恋のショックでやせ細りついに身体は消滅して声だけの存在になってしまった…
哀れなエコーちゃん!僕らが山で「やっほー」と叫ぶのを返してくれる、あの彼女に、そんな辛い過去があったとは…!ナルキッソス君は人の心がないのか?とエコーちゃんに共感してまう。実際、ナルキッソス君は
sed fuit in tenera tam dura superbia forma(3. 354)
「彼の柔肌にはこれ程に堅牢なsuperbia(自尊心)があった」
と称されている。見た目はtener(やわらかい、弱い、優美)なのに、内に秘めたプライドはdura(堅い、丈夫な、武骨な)だ、という対比が為されている。
エコーは、しかし、そんな彼に恋してしまった。彼女の恋が燃え上がる姿をオウィディウスは見事に描いている。ナルキッソスを見かけたエコーは彼に歩み寄っていく。
quoque magis sequitur, flamma propiore calescit, non aliter quam cum, summis circumlita taedis, admotas rapiunt uiuacia sulphura flammas. (3.372-373)
「(ナルキッソスに)近づくにつれ、彼女の炎はより燃えるのだった。それはちょうど、硫黄を塗られた松明が、近づけられると、パッと炎を奪う様とおなじだった。」
硫黄に火を燃やす効力があったとは知らなかったが(笑)、「恋の炎」というイメージは古代ローマで既にもう存在していたのは驚きだった。パッと燃え上がる炎がありありと目に浮かぶ、オウィディウスのこの描写には感嘆せざるを得ない。
仲間とはぐれたナルキッソスは「誰かいるのか?」と呼びかける。ここからが面白い。エコーは、相手の言葉の繰り返ししか許されていない。だが、繰り返す言葉を選ぶことはできる。つまり、その気になれば返事を返すこともできるのだ。
Narcissus: ecquis adest?
「誰かいるのか?」
Echo: Adest.
「いる」
と肯定文にすることでエコーは返事をすることに成功している!(ナルキッソスが気づいているかは不明だが)。「ここへ来い!」、ナルキッソスが言う。「ここで会おう!」「会おう!」とエコーはそのまま繰り返して、恋を抑えられずにナルキッソスに抱き着いてしまう。勿論高慢なナルキッソスが自分を抱かせるはずもなくそれから逃れようとする。
Nar: “manus complexibus aufer! ante” “emoriar, quam sit tibi copai nostri.”
Echo: “sit tibi copia nostri!”(3. 390-391)
ここは訳すのが難しいところだ。岩波訳では
ナルキッソス「手を放すのだ!抱きつくのはごめんだ!」「いっそ死んでから、君の自由にされたいよ。」
エコー「君の自由にされたいよ!」
ナルキッソスは「そんなことされたくない!」と否定している一方で、エコーは「そうしたい!」とこれまた肯定しているのだ。しかし、これを日本語で表すのは難しい。人文書院訳では
ナルキッソス「手をのけてくれ。抱きついたらいやだ。」「死んだほうがましだよ、君の思い通りになるくらいなら!」
エコー「思い通りになる……」
と、「……」を使ってエコーの気持ちを表すのに成功している。どちらも共通してナルキッソスの台詞を繰り返して、うまくエコーの意図を汲もうとしていると言える。これらの訳を踏まえて僕は
ナルキッソス「手を放せ!抱くのはやめろ。」「君に抱かれるなんてこと、死んで
も嫌だ!」
エコー「君に抱かれるなんて……!」
と訳してみた。「君に抱かれるなんて……!(ルンルン)」という感じだ。僕の翻訳の是非は横に置き、ともかくオウィディウスは面白い。