classics-disco’s blog

西洋古典学を学ぶ一学生のブログ

「無知の知」という誤謬──「自分が知らないということ」を知る?

 はじめに

 先日納富信留先生の『哲学の誕生』(ちくま学芸文庫)をとても面白く読み終えました。この本はソクラテスとは何者か?という問いを中心に、古代ギリシアにおける哲学の誕生そのものを論じています。本書は、ソクラテスが毒薬を飲み、残された周りの人びと(プラトン含む!)が彼を追悼して著作を始めたという、まさにその「不在のソクラテスとの対話」に哲学の誕生を見る。

 

哲学は、いつ始まったのか?最初の哲学者は、ソクラテス──あるいは、タレスピタゴラス──というよりも、彼と対話し、その記憶から今、哲学を始める私たち自身でならなければならない。

 哲学は、つねに、今、始まる。(316頁)

 

この魅力的な言葉で締められているのは、本書第六章「『無知の知』を退けて──日本に渡ったソクラテス」である。この章は、驚くべきことに、日本では人口に膾炙しているこの言葉が、実はプラトンにおいては一度も登場しないこと、そして誤解されて定着してしまったことを論じている。もしかすると哲学の専門の人たちにはよく知られているのかもしれないが、少なくとも僕には衝撃だった。なにしろ「ソクラテス=無知の知」と暗記していたから。しかし、ここで「ああそうか無知の知は間違っているのか」と鵜呑みにするのは危険なので、僕なりにしっかりと考えてみた。結論として、ソクラテスが自分は無知であることを知っているとは言っておらず、自分が無知であると思う、と明らかに峻別して述べている、という納富先生の指摘は正しいと思われる。そのことを『ソクラテスの弁明』の原文から見ていきたい。

 

 ソクラテスの弁明

 『ソクラテスの弁明』21Dはソクラテスアポロンの神託について、そして人間の知について話している有名なシーンである。ソクラテスは、自分よりも賢い者を探してみるも彼は知らないのに知っていると思っているのだと述べ、その点で自分は彼よりも賢いと語る。まず日本語訳を引用してみる。

 

しかしわたしは、自分一人になったとき、こう考えた。この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らないらしいけれども、この男は、知らないのに、何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりに、また知らないと思っている。(田中美知太郎・池田美恵訳、新潮文庫

 

πρὸς ἐμαυτὸν δ᾽ οὖν ἀπιὼν ἐλογιζόμην ὅτι τούτου μὲν τοῦ ἀνθρώπουἐγὼ σοφώτερός εἰμι: κινδυνεύει μὲν γὰρ ἡμῶν οὐδέτερος οὐδὲν καλὸνκἀγαθὸν εἰδέναι, ἀλλ᾽ οὗτος μὲν οἴεταί τι εἰδέναι οὐκ εἰδώς, ἐγὼ δέ, ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι:

 

これをよく読んでみると、οἶδα(オーイダ)とοἴομαι(オイオマイ)という語が区別されていることが判る。判り易く分けてみる。

 

①κινδυνεύει μὲν γὰρ ἡμῶν οὐδέτερος οὐδὲν καλὸνκἀγαθὸν εἰδέναι「この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らない(オーイダ)けれども」、

 

②ἀλλ᾽ οὗτος μὲν οἴεταί τι εἰδέναι οὐκ εἰδώς「この男は、知らない(オーイダ)のに、何か知っているように思っている(オイオマイ)が」


③ἐγὼ δέ, ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι「わたしは、知らない(オーイダ)から、そのとおりに、知らないと思って(オイオマイ)いる。

 

この通り、ソクラテスは「知らないことを知る(オーイダ)」とは言っておらず、「知らないと思って(オイオマイ)いる」と言っていることが明白である。これは彼が「汝自らを知れγνώθι σαυτόν」というアポロンの格言から、「知ある者は神のみ」であることを解し、人間として最大の知である「自らの無知を自覚する(オイオマイ)」という境地に達したことを表す。

 

 

今日は納富納富『哲学の誕生』で論じられている「無知の知」について、ギリシア語に焦点を置いて解説してみました。誤っている点があれば、すべて僕の責任なので、こっそり御指摘いただくと幸いです。