classics-disco’s blog

西洋古典学を学ぶ一学生のブログ

ギリシア語ビギナーの道②

 高校の時の古文の授業をふと思い出す。──古文の先生(なぜか僕のことを滅茶苦茶嫌っていた)は言った。「『みる』『あふ』という動詞は『結婚すること』を意味します。覚えておくように」彼は黒板にチョークでそう書いた。そうして授業は進んでいく。

 

 「えっ?」と僕は思った。「なんで見る/会う=結婚するになるんだ?!」僕は頭を抱えたが、その時は勉強よりも他にやること(ゲームとか小説を読むとか)で忙しかったのでスルーして、授業を放棄し、古文=ヨクワカラナイモノと判断停止をしてゲームとか読書とかに没頭していた…(その割にテストはまあまあの点数だったが)。確かに、その疑問は、今思っても当然の疑問だったと思う。その問いは、その当時の、つまり平安時代の日本の文化的背景を知っていなければわからないことだったのだ。

 

 さて、今古語辞典で「みる」「あふ」を引いてみると「さやうならむ人をこそめ、似る人なくもおはしけるかな」(そのような人と結婚したい、似ている人もなく素晴らしい方だ」(源氏)「この世の人は、男は女にあふことをす」(この世界の人は、男は女と結婚するということをする」(竹取)という例文が出ているのを確認した。ちなみにこの源氏の台詞は藤壺のことを指しているらしいですね。竹取の方は翁が「おいお前もそろそろ結婚してワシを安心させてくれ~~~」って語るシーンです。とまあこんな風に「みる」「あふ」は当たり前に「結婚する」という訳が当てられている。和歌の例を見てよう。

 

逢ひ見ての後の心に比ぶれば昔はものを思はざりけり(藤原敦忠

 

いや~これマジでいい歌だな~~ というのはさておき、この逢ひ見はもちろん「一目見る」という意味ではないのだ。彼(敦忠)はこの歌で、恋人に何度も何度も手紙を送り、やっとのことでその女性の家を訪ね一夜を過ごし、その甘く切ない逢瀬を振り返りながら恋の心情を詠んでいる、、、ということを読み解かなければならない(ちょっと解釈が主観的すぎるかもしれない)。それにはまず、そもそも、「結婚」という制度はこの当時今のようには確立していなかったことを知っていなければならないのだ(もしかすると、「みる/あふ」の訳としては「共寝をする」が適切かもしれないですね)。だから、言葉の学習は、その言語が「当たり前」としている文化背景も勉強しなきゃいけない。

 

 例えば、伊勢物語の初段の男は垣根の間から女性を見て恋文を贈るわけだが、これは現代的にみると「えっ…隙間から家の中見るとかキモイ…」となりかねないが、文化背景を踏まえるとこれは「垣間見」という風流な行為で、今でいう「ノゾキ」とはまた違うものである。それやはり文化背景を知ってこそ理解されることだ。…語学と文化の関わりは侮れない。

 

 

 もしかすると「何を改まって当たり前のことを言っているんだ。」と思われるかもしれない。確かに、例えば上記のような日本語を母語にする人が、学校古語を勉強する例では、正直、さして問題にならないかもしれない。実際、多くの日本の受験生は単語と文法さえ覚えれば、試験を問題なくパスすることができる。でも研究となればそうはいかない。上記の「みる/あふ」という言葉も、きっと日本語の研究者たちが「う~む、これは今の日本語のみるとは違うみたいだなあ」と思いながら色んな用例を調べてようやく辞書に記されるようになった経緯があるに違いない!(たぶん)

 

 これはギリシア語の場合もそうである。B.スネルは『精神の発見』という本で、ホメロスをはじめとする様々なギリシア語文献を詳細に調べ、その当時のギリシア語が「当たり前としていた時代背景」を探っている。例えば、ホメロスにおいて、「見る」という動詞は 

 

ὁρᾶν, ἰδεῖν, λεύσσειν, ἀθρεῖν, θεᾶσθαι, σκέπτεσθαι, ὄσσεσθαι, δενδίλλειν, δέρκεσθαι, παπτάινειν

 

と多数あるのだが、個々の動詞の含意する「見る」は違うという。例えば δέρκεσθαιという動詞は、「見る」というよりもむしろ「特定の目つきをしていること」であるらしい。そしてギリシア語のδπάκων(蛇)という名詞は δέρκεσθαιからできたという。それは、蛇が特定の、君の悪い「目つき」をしているからだという。従って、スネルによれば、「ホメーロスの場合 δέρκεσθαιは眼の機能というよりは、むしろ誰か相手によって知覚されている眼の光の反射を表している」。これはなかなか驚きである。一方、θεᾶσθαι はただ「見る」ではなく「同時に口をぽかんと開けること」をも含むという。そう考えてみると、我々現代人が当たり前に理解している「見る」という動詞が意味する行為は、古代ギリシアにおいては当然視されていなかったのだ。スネルは

 

すなわち、彼らは<見る>ということをまだ知らなかった。(中略)彼らはまだ<見る>ことができなかったのだと。

 

と論じている。

 

このようにギリシア語を勉強するにあたって、僕の持つ常識的な考え(「見る」とか当たり前の行為じゃン!みたいな)はいったん保留して、「ギリシア人はまだ<見る>ということを知らなかったのでは?」と常識を疑うことが求められると思われる。勿論一朝一夕でできるものではないから、焦らず、毎日、少しづつやるのが大事だろう。そう思いながら、今日も部屋で『イーリアス』を朗誦しています。新たな発見の可能性を探りながら──