classics-disco’s blog

西洋古典学を学ぶ一学生のブログ

スマブラのテーマ曲で学ぶラテン語

スマブラのテーマ曲――「たーりらら〜〜いりいりう〜〜」みたいな曲――の歌詞は実は日本の有名なラテン語学者でいらっしゃる山下太郎先生がラテン語訳したもの。ということを知り、早速その歌詞を解説しつつラテン語に親しんでもらうことを目論んだ文章を書くことに決めました。よかったら読んでください。

https://note.com/classics_disco/n/n7602be4ec0e5

 

ちなみにこのブログは漸進的にnoteに移行していく積もりです。noteの方もフォローして頂ければ幸いです

 

 

 

 

悩みに悩み、ムーミン谷へ行く

 悩みについて

 どんな人でも悩み苦しんだ経験はあるだろう。その悩みの内容や、どのようにしてそれに取り組むかは文字通り千差万別だが、恐らく多くの人は悩みを解決するために「何かに頼る」のではないだろうか。ある人は酒に頼るかもしれないし、ある人は恋人に頼るかもしれない。ある人は悩みそのものに取り組むことを停止し、文学作品に頼ることで心を楽しませるかもしれない。しかし、それはしばしば人から「現実逃避」と呼ばれる。ではその「現実」とは何なのだろうか。人は、目の前の事実から、無意識か意識的かにかかわらず、認識するものを選択する。そして「やるべきこと」と認識したもの——それが強いられたものであれ、自ら選択したものであれ——を放棄することが、現実逃避と呼ばれる。でもその「やるべきこと」は本当にやるべきことなのかどうかは各人が吟味する必要があるだろう。単に周りの愚かしい人間がそう言っているだけかもしれないし、あるいは自分の思いこみかもしれない。「やるべきこと」を決定づけるのは、結局のところ、各人の価値観なのである。そのような吟味するのに助けになるのが文学作品だと僕は思う。

 

 ところで受験生の僕にとっての「現実逃避」はムーミン谷へ行くことだった。僕の高校の図書館にはムーミンコミックシリーズが(なぜか)全部そろっていて、暇さえあれば図書館でそれを読んでいた。別に小さい頃からムーミンに親しんでいたわけじゃない。ただ単にそこにあったから、何も考えずに読めたから、そして挿絵が可愛かったから、読んでいた。今思い返せば、「やるべきこと」である受験勉強なるもの——もちろんこれは教師によって植え付けられた「やるべきこと」である。それを自分で「これはやるべきことなのだ」と信じるに至るまでに、僕は長い時間を要した——に心底うんざりしていた僕は、周りの人間に「意味のない」と思われていることをするのにひたすら打ち込んでいたのかもしれない。浪人生活が始まってからも時間を作ってムーミンの短編集 “Tales from Moominvalley” を英語で読んだりもしていた。トーベヤンソンの紡ぐ物語は謎めいていて、ときに温かく、ときにギョッとするほど人間の暗い部分を見せたりする、不思議な魅力を持っている。この暗さは戦争という作者の時代背景を反映しているのかもしれないし、作者自身の心によるものかもしれない。

 

 なぜムーミンの事を思い出したかと言えば、僕が今シモーヌ・ヴェーユを読んでいるからだ。なぜ?と人は訝るだろう。シモーヌ・ヴェイユの著作に『ギリシアの泉』と題された論考集があるが、その中に『「イリアス」あるいは力の詩編」という論文が収録されてある。

 

イリアス』の真の英雄、真の主題、その中枢は、である。

 

という印象的な書き出しのこの論文は、『イリアス』という戦争のことを詠う叙事詩に描かれている、人間が力によってモノとなってしまう悲哀を論じている。圧倒的な力の前に人は無力である。その時、人はどうなるのか。戦争の当事者にとって、戦争は「現実」であり、仲間の死や、敵の攻撃の恐怖が絶えずこれが「現実」であることを彼に告げる。『イリアス』ではギリシア勢とトロイア勢が戦い、最終的にはギリシア勢が勝利することが既に当然のこととして了解されている。ちょうど僕らがかぐや姫の冒頭を聞くと「ああ姫は最後月へ帰るのだな」と思うように。だがその結滅へ至るまでに、アキレウスが心通わせた戦友パトロクロスは斃れ、彼自身、長くは生きられないことをゼウスより告げられる。これはすべて必然である、と。英雄の妻は哀れである。彼女は死ぬこととなるかもしれない夫を送りだし、彼のために風呂を沸かしている。その時まだ彼女は知らない。かの夫は無残にも殺されてしまったことを。

 

 確かに『イリアス』は悲惨な現実を我々に語る。しかしまさにそれゆえに、つまり戦争においては力によって人間が非人間化しているがゆえに、ほんのたまに純粋な形で、真なる人間の愛が描かれるのである。

 

 兵士を強いて、破壊に赴かせる絶望。奴隷や敗者の蹂躙。虐殺。これらすべては一様で悍ましくも恐るべき光景をつくりだすのに寄与する。力がその唯一の英雄である。あちこちにちりばめられている燦く瞬間がなければ、人間たちが魂をもつ短くも神的な瞬間がなければ、そのような光景からは陰鬱な単調さが生じる結果となろう。かくて一瞬にしろ覚醒した魂は、たとえ力の支配のもとにたちまち自己を失ってしまうとしても、その覚醒は純粋で無垢である。そこには曖昧で複雑で混乱した感情はひとつもない。ただ勇気と愛だけが座を占めている(p. 44)

 

 このヴェーユの著作を訳したのは冨原眞弓という人であるが、なにやら見覚えがあると思って調べてみると、このヴェーユ研究者は、同時にムーミンシリーズの翻訳者でもあった。不思議なつながりはここで生まれた。僕は、冨原さんがヴェーユを研究する傍らムーミンに惹かれた気持ちはわかる気がする。彼女にとっては、ヴェイユムーミンも、彼女が自らの「現実」に取り組み、その価値を改めて吟味するための助けとなる存在だったのだろう。

 

ムーミンを読む (ちくま文庫)

ムーミンを読む (ちくま文庫)

 

 

 

ギリシアの泉 (みすずライブラリー)

ギリシアの泉 (みすずライブラリー)

 

 

 

Tales from Moominvalley

Tales from Moominvalley

 

 



愛について語る夜――哲学Bar

 根源的な問い

 我々はどのようにして「哲学」をする事が出来るのだろうか。この問いは我々を哲学の始まりの地、ギリシアへと運んでゆく。そこにいた最も有名な哲学者、ソクラテスは町を歩き回ってありとあらゆる市民たちを捕まえては対話をしていたという。彼の哲学的な活動は紙に対してではなく、常に人間に対して向けられていたのだ。ここから哲学という活動において「場」というのは見過ごしてはならない大きな要素であることが分かる。

 ソクラテスの弟子プラトンが著した『饗宴』という書では男たちが集まってワイン片手に愛について語る姿が描かれる。一人が話し、それを受けてもう一人が話す、といった風に進んでゆくこの対話篇は、哲学という営みの「場」を美しく体現している。そこには大仰な書物も書き記すための紙やペンも登場しない。あるのは葡萄でできた酒と交わされる会話のみである。かくして「哲学Bar」という試みが構想された。いうなれば、「饗宴」を再現しようという目論見である。

 

 哲学Barについて

 ここで話は現代へと戻る。僕がこの企画を考えるに至ったのは知人の誘いであった。彼はイベントバーの経営を望んでいて、イベント企画者を求めていた。最初彼は僕に「ギリシア語Bar」をしてほしかったそうだが流石に来る人が限られてしまうだろうとの考えから哲学Barと称する企画をした。僕のようなひよっこが哲学を語るなど恥を知れとの声が聞こえそうだが、それは重々と承知の上である。実のところ僕が主体で語る場を設けたのではない。このBarのコピーは「愛、語れます」としたのだが、その通り来ていただいた方々に主体的に話してもらう場を作ったのである。僕が務めたのはその話し合いを円滑にするという役、つまりファシリテーターであった。僕にとって初めての試みであった哲学Barはどのようにして進んでいったのか、その一端を記すこととする。

 

  全体的な流れ

 我々は先ず各々の事を知ることから始めた。友人と一緒に来ていただいた人や一人で来ていただいた人など様々であった。適当に横の人とペアになってもらい、「犬と猫どちらが好きか」などと言ったパーソナルなテーマについて話し合ってもらった。これは論理的にではなくパーソナルに話してもらうことでその人のひととなりが分かるという僕の考えからだった。そのようなアイスブレイクを一通り終えた後、主題である愛について語ることとなったが、ある人が正しくも「愛について語るには愛を分類する必要があるのではないか」と言ったので、「どのような愛が存在するか」を話し合った。だいたい四人ぐらいのグループで話してもらい、頃合いを見てグループ替えを行ったりした。そうして、家族愛、兄弟愛、恋人への愛、夫婦の愛、そして神の愛などが挙げられた。店の前に出て話すグループもいた。僕はちょろちょろと動き回って、色んな人の話を聞いていた。大変興味深い話は幾つもあったが、残念ながら逐一報告することはできない。

 特に話題となったのは恋人関連であったように思われる。ある人は愛の有限性に対する哀しみを語った。いわく、我々は恋人に愛を伝える。その時は二人は幸せで、何の問題もない。しかし、我々は恋人と別れることもある。その時、二人が交わした愛の言葉は虚無となり、欺瞞となるのである。従って、とその人は言った、私は誰かに愛していると伝えることができない。なぜなら抗いがたい時間の流れによって愛は綻んでゆくものだし、そのような有限性を感じながら愛を語ることは苦痛であるから。これに対してある人は愛というのは無限であることを話していた気がするが、残念ながら思い出すことはできない。発せられた言葉というのは飛び去って行く。それを書き留め、しっかり捕まえることの重要さを、僕は忘れていたのかもしれない。

 

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教養人への憧憬と西洋古典学

 レイトン教授という原初体験

 恐らくだけど、僕の中での「教養人像」の原初体験は小学生の時に流行った「レイトン教授シリーズ」のレイトン教授だと思う。日常の何気ないことを鋭く観察し、推理して、弟子のルークと楽しく謎について対話する姿は僕にはとても良い生き方に見えた。つまり、彼のには他の人には見えない(正確には見落としている)謎が見えていて、その謎について思考するのが何よりの幸福なのである。

 このような「知的な生活」という憧れは、僕を読書に導いた。僕の家には本と呼ばれる知的財産は一つもなかったので、もっぱら小学校の図書館や、あるいは教室においてある本に手を伸ばした。活字を頭の中で展開する知的快感は、まさに日常を謎で彩るレイトン教授同様、教養人的であると悦に入ることができた(もちろん、このようにして心情を描写することは小学生の僕には未だできなかったけれど)。

 そのようにして僕には読書が人生に欠かせないものとなった。小学生の頃何を読んでいたかはあまり思い出せないけど、「ズッコケ三人組シリーズ」や「かいけつゾロリシリーズ」はほぼ読破したように思う。あと少年三人が霊能力(不動明王の力とか、文殊菩薩の力とか)を用いて霊と戦ったりするシリーズも読んでいたのを思い出した(タイトルが思い出せないので誰かピンときたら教えてください)。

 いつの頃からか地元の小さな本屋さんに通うようになり、東野圭吾辻村深月の小説を読むようになった。映画を観るよりかは基になっている小説を読むほうが金もかからないし時間もたっぷり楽しめるし、何倍もお得だと思っていた。高校に入ったごろに村上春樹1Q84』に何となく手を出して以来彼の小説に何故か惹かれてずっと読んでいる。

 

 そして洋書へ

 村上春樹の小説に親しんでいくにつれ、村上春樹が影響を受けたとされる『The catcher in the rye』に興味を持ち、とうとう僕は洋書に手を出すことになった。もちろんスラスラと読むことはできなかったが、外国語で文学を楽しむことは僕にとって大きな知的満足を与えてくれるものだった。一年間カナダに留学した時は人と話すよりかは世界的に有名な児童文学を読破するのに勤しんで、『不思議の国のアリス』、『チャーリーとチョコレート工場』、『ピーターパン』、『ナルニア国物語』、また『ドクタージキルとミスターハイド』や『フランケンシュタイン』といった世界文学の簡単なヴァージョンなど、あらゆる本をCDで聴いて耳の練習もしつつ読んでいた。今思うとこれはとてもいい体験だったように思われる。

 そんな中僕が最も惹かれたのは『星の王子さま The little prince』だった。日本語で読んだことはなかったのだけど、英語で初めて読んで僕はこの物語の虜になってしまった。ここには人生の最も大切なことが書かれている、と思った。王子様こそ、人生というものを知っている人だ、と思った。何故なら彼は金を払ってのどの渇きを覚えなくなる薬を服用するよりも、のんびりと井戸まで歩いていく楽しみを知っている人だからである。知的な人生を送るには余裕を持つことは欠かせないのだ、ということを僕は理解した。そしてその余裕を創り出すためには努力を惜しんではならない、ということも。夏目漱石を読み始めた僕は更に余裕的生活へと傾倒して、一時は高等遊民になることを夢見た。

 

 人文主義者との出会い

 浪人生活を送っていた時、僕は世界史を初めて勉強して人文主義者たる人たちの存在を知った。彼らは中世ヨーロッパの知識人たちで、ギリシア=ローマの古典を愛し、古典復興に尽力したのだった。フッテンという人は古典復興が花開いた時代に歓びの声をあげてこう言った。《O, saeculum, o, litterae, iuvat vivere!》「おお、世紀よ、おお、文藝よ!生きることは楽しい」

このような人文主義者に憧れをもった僕は、特にエラスムスを学びたいと思った。彼こそ「人文主義者の王」と呼ばれた人物であって、書物を読み文章を書いて人生を送った文人であったのだ。彼の用いたラテン語や、彼の読んでいたギリシア語に僕は興味を持った。

 大学に入ると僕はラテン語がやりたいと教授に伝えた。すると先生は親切にも彼のオフィスで個人レッスンをやってくれた(一年生は必修授業の影響で多くの場合古典語を履修できないのだ)。そこからギリシア語も始めた。そうしていく内に僕は西洋古典学という領域があることを知り、これこそ教養人の最骨頂であると確信した。初めに僕が手を出したのはホメロスイリアス』であった。殆ど何も知らない状態で2000うん年前の物語を読むのはなかなか骨であったが、この書物の持つ歴史的・文化的価値を正しく知っていた僕には『イリアス』を読むことは教養人らの仲間入りができたような気がしてとても高揚していた。

 

 今僕は『イリアス』をギリシア語で読む授業をとっているのだけど、ようやくエラスムスの背中が見えてきたような気がする。今から約500年前にこの叙事詩を読んでいた教養人の姿を想いながら、今日も僕は古典を繙く。

『ソクラテスの弁明』10, 19, 31章 勉強ノート

ソクラテスの弁明』の講読は、「古くからの告発に対する弁明」が終わるのが10章なのでちょうどキリがいいしそこまでにしようとなっていたところ、もう少しやれそうだということで「ダイモーン」が登場する19, 31章を抜き出して読むことになった。講読をやってもらったおかげで大分とギリシア語に対する自信がついた。特に今までほとんどやってなかった形態論について学ぶことが多かった。未だ初学者の域を出ないけれど、やるべきことが明確になったので良しとする。

 

取り敢えずこれを以って夏休みのギリシア語は終わりとして、ラテン語⇒ドイツ語⇒フランス語へと勉強していくこととする。夏休み中にラテン語のまとまった文章を読んでおきたい。そろそろやっておかないと忘れちゃうかもしれない。あとは図書館で借りてきた本を一通り読み進め、卒論の準備を進める。もう夏休みも残りわずか…

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『ソクラテスの弁明』7~9章 勉強ノート

 『ソクラテスの弁明』は1~10章で取り敢えず区切りがついているのですが、「ダイモーン」に関するところを取り上げて1~10+19, 31章を読みました。10, 19, 31のノートを作って、取り敢えず本チャレンジを終えます。

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『ソクラテスの弁明』4~6章 勉強ノート

 ギリシア語の形態論は僕には複雑で中々身に付けるのは難しく感じるけれども、出来るだけ意識をそれに向けてノート作成するように努めた。おかげで調べる手間がぐっと増え、辞書と文法書とにらめっこする日々が続いているが、語学はやはりこういう地味で味気のない反復的な作業が不可避だと思うので淡々と進めることにする。誤ってるのを発見された方はご指摘くだされば有難いです。

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