classics-disco’s blog

西洋古典学を学ぶ一学生のブログ

悩みに悩み、ムーミン谷へ行く

 悩みについて

 どんな人でも悩み苦しんだ経験はあるだろう。その悩みの内容や、どのようにしてそれに取り組むかは文字通り千差万別だが、恐らく多くの人は悩みを解決するために「何かに頼る」のではないだろうか。ある人は酒に頼るかもしれないし、ある人は恋人に頼るかもしれない。ある人は悩みそのものに取り組むことを停止し、文学作品に頼ることで心を楽しませるかもしれない。しかし、それはしばしば人から「現実逃避」と呼ばれる。ではその「現実」とは何なのだろうか。人は、目の前の事実から、無意識か意識的かにかかわらず、認識するものを選択する。そして「やるべきこと」と認識したもの——それが強いられたものであれ、自ら選択したものであれ——を放棄することが、現実逃避と呼ばれる。でもその「やるべきこと」は本当にやるべきことなのかどうかは各人が吟味する必要があるだろう。単に周りの愚かしい人間がそう言っているだけかもしれないし、あるいは自分の思いこみかもしれない。「やるべきこと」を決定づけるのは、結局のところ、各人の価値観なのである。そのような吟味するのに助けになるのが文学作品だと僕は思う。

 

 ところで受験生の僕にとっての「現実逃避」はムーミン谷へ行くことだった。僕の高校の図書館にはムーミンコミックシリーズが(なぜか)全部そろっていて、暇さえあれば図書館でそれを読んでいた。別に小さい頃からムーミンに親しんでいたわけじゃない。ただ単にそこにあったから、何も考えずに読めたから、そして挿絵が可愛かったから、読んでいた。今思い返せば、「やるべきこと」である受験勉強なるもの——もちろんこれは教師によって植え付けられた「やるべきこと」である。それを自分で「これはやるべきことなのだ」と信じるに至るまでに、僕は長い時間を要した——に心底うんざりしていた僕は、周りの人間に「意味のない」と思われていることをするのにひたすら打ち込んでいたのかもしれない。浪人生活が始まってからも時間を作ってムーミンの短編集 “Tales from Moominvalley” を英語で読んだりもしていた。トーベヤンソンの紡ぐ物語は謎めいていて、ときに温かく、ときにギョッとするほど人間の暗い部分を見せたりする、不思議な魅力を持っている。この暗さは戦争という作者の時代背景を反映しているのかもしれないし、作者自身の心によるものかもしれない。

 

 なぜムーミンの事を思い出したかと言えば、僕が今シモーヌ・ヴェーユを読んでいるからだ。なぜ?と人は訝るだろう。シモーヌ・ヴェイユの著作に『ギリシアの泉』と題された論考集があるが、その中に『「イリアス」あるいは力の詩編」という論文が収録されてある。

 

イリアス』の真の英雄、真の主題、その中枢は、である。

 

という印象的な書き出しのこの論文は、『イリアス』という戦争のことを詠う叙事詩に描かれている、人間が力によってモノとなってしまう悲哀を論じている。圧倒的な力の前に人は無力である。その時、人はどうなるのか。戦争の当事者にとって、戦争は「現実」であり、仲間の死や、敵の攻撃の恐怖が絶えずこれが「現実」であることを彼に告げる。『イリアス』ではギリシア勢とトロイア勢が戦い、最終的にはギリシア勢が勝利することが既に当然のこととして了解されている。ちょうど僕らがかぐや姫の冒頭を聞くと「ああ姫は最後月へ帰るのだな」と思うように。だがその結滅へ至るまでに、アキレウスが心通わせた戦友パトロクロスは斃れ、彼自身、長くは生きられないことをゼウスより告げられる。これはすべて必然である、と。英雄の妻は哀れである。彼女は死ぬこととなるかもしれない夫を送りだし、彼のために風呂を沸かしている。その時まだ彼女は知らない。かの夫は無残にも殺されてしまったことを。

 

 確かに『イリアス』は悲惨な現実を我々に語る。しかしまさにそれゆえに、つまり戦争においては力によって人間が非人間化しているがゆえに、ほんのたまに純粋な形で、真なる人間の愛が描かれるのである。

 

 兵士を強いて、破壊に赴かせる絶望。奴隷や敗者の蹂躙。虐殺。これらすべては一様で悍ましくも恐るべき光景をつくりだすのに寄与する。力がその唯一の英雄である。あちこちにちりばめられている燦く瞬間がなければ、人間たちが魂をもつ短くも神的な瞬間がなければ、そのような光景からは陰鬱な単調さが生じる結果となろう。かくて一瞬にしろ覚醒した魂は、たとえ力の支配のもとにたちまち自己を失ってしまうとしても、その覚醒は純粋で無垢である。そこには曖昧で複雑で混乱した感情はひとつもない。ただ勇気と愛だけが座を占めている(p. 44)

 

 このヴェーユの著作を訳したのは冨原眞弓という人であるが、なにやら見覚えがあると思って調べてみると、このヴェーユ研究者は、同時にムーミンシリーズの翻訳者でもあった。不思議なつながりはここで生まれた。僕は、冨原さんがヴェーユを研究する傍らムーミンに惹かれた気持ちはわかる気がする。彼女にとっては、ヴェイユムーミンも、彼女が自らの「現実」に取り組み、その価値を改めて吟味するための助けとなる存在だったのだろう。

 

ムーミンを読む (ちくま文庫)

ムーミンを読む (ちくま文庫)

 

 

 

ギリシアの泉 (みすずライブラリー)

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Tales from Moominvalley

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