classics-disco’s blog

西洋古典学を学ぶ一学生のブログ

教養人への憧憬と西洋古典学

 レイトン教授という原初体験

 恐らくだけど、僕の中での「教養人像」の原初体験は小学生の時に流行った「レイトン教授シリーズ」のレイトン教授だと思う。日常の何気ないことを鋭く観察し、推理して、弟子のルークと楽しく謎について対話する姿は僕にはとても良い生き方に見えた。つまり、彼のには他の人には見えない(正確には見落としている)謎が見えていて、その謎について思考するのが何よりの幸福なのである。

 このような「知的な生活」という憧れは、僕を読書に導いた。僕の家には本と呼ばれる知的財産は一つもなかったので、もっぱら小学校の図書館や、あるいは教室においてある本に手を伸ばした。活字を頭の中で展開する知的快感は、まさに日常を謎で彩るレイトン教授同様、教養人的であると悦に入ることができた(もちろん、このようにして心情を描写することは小学生の僕には未だできなかったけれど)。

 そのようにして僕には読書が人生に欠かせないものとなった。小学生の頃何を読んでいたかはあまり思い出せないけど、「ズッコケ三人組シリーズ」や「かいけつゾロリシリーズ」はほぼ読破したように思う。あと少年三人が霊能力(不動明王の力とか、文殊菩薩の力とか)を用いて霊と戦ったりするシリーズも読んでいたのを思い出した(タイトルが思い出せないので誰かピンときたら教えてください)。

 いつの頃からか地元の小さな本屋さんに通うようになり、東野圭吾辻村深月の小説を読むようになった。映画を観るよりかは基になっている小説を読むほうが金もかからないし時間もたっぷり楽しめるし、何倍もお得だと思っていた。高校に入ったごろに村上春樹1Q84』に何となく手を出して以来彼の小説に何故か惹かれてずっと読んでいる。

 

 そして洋書へ

 村上春樹の小説に親しんでいくにつれ、村上春樹が影響を受けたとされる『The catcher in the rye』に興味を持ち、とうとう僕は洋書に手を出すことになった。もちろんスラスラと読むことはできなかったが、外国語で文学を楽しむことは僕にとって大きな知的満足を与えてくれるものだった。一年間カナダに留学した時は人と話すよりかは世界的に有名な児童文学を読破するのに勤しんで、『不思議の国のアリス』、『チャーリーとチョコレート工場』、『ピーターパン』、『ナルニア国物語』、また『ドクタージキルとミスターハイド』や『フランケンシュタイン』といった世界文学の簡単なヴァージョンなど、あらゆる本をCDで聴いて耳の練習もしつつ読んでいた。今思うとこれはとてもいい体験だったように思われる。

 そんな中僕が最も惹かれたのは『星の王子さま The little prince』だった。日本語で読んだことはなかったのだけど、英語で初めて読んで僕はこの物語の虜になってしまった。ここには人生の最も大切なことが書かれている、と思った。王子様こそ、人生というものを知っている人だ、と思った。何故なら彼は金を払ってのどの渇きを覚えなくなる薬を服用するよりも、のんびりと井戸まで歩いていく楽しみを知っている人だからである。知的な人生を送るには余裕を持つことは欠かせないのだ、ということを僕は理解した。そしてその余裕を創り出すためには努力を惜しんではならない、ということも。夏目漱石を読み始めた僕は更に余裕的生活へと傾倒して、一時は高等遊民になることを夢見た。

 

 人文主義者との出会い

 浪人生活を送っていた時、僕は世界史を初めて勉強して人文主義者たる人たちの存在を知った。彼らは中世ヨーロッパの知識人たちで、ギリシア=ローマの古典を愛し、古典復興に尽力したのだった。フッテンという人は古典復興が花開いた時代に歓びの声をあげてこう言った。《O, saeculum, o, litterae, iuvat vivere!》「おお、世紀よ、おお、文藝よ!生きることは楽しい」

このような人文主義者に憧れをもった僕は、特にエラスムスを学びたいと思った。彼こそ「人文主義者の王」と呼ばれた人物であって、書物を読み文章を書いて人生を送った文人であったのだ。彼の用いたラテン語や、彼の読んでいたギリシア語に僕は興味を持った。

 大学に入ると僕はラテン語がやりたいと教授に伝えた。すると先生は親切にも彼のオフィスで個人レッスンをやってくれた(一年生は必修授業の影響で多くの場合古典語を履修できないのだ)。そこからギリシア語も始めた。そうしていく内に僕は西洋古典学という領域があることを知り、これこそ教養人の最骨頂であると確信した。初めに僕が手を出したのはホメロスイリアス』であった。殆ど何も知らない状態で2000うん年前の物語を読むのはなかなか骨であったが、この書物の持つ歴史的・文化的価値を正しく知っていた僕には『イリアス』を読むことは教養人らの仲間入りができたような気がしてとても高揚していた。

 

 今僕は『イリアス』をギリシア語で読む授業をとっているのだけど、ようやくエラスムスの背中が見えてきたような気がする。今から約500年前にこの叙事詩を読んでいた教養人の姿を想いながら、今日も僕は古典を繙く。