classics-disco’s blog

西洋古典学を学ぶ一学生のブログ

愛について語る夜――哲学Bar

 根源的な問い

 我々はどのようにして「哲学」をする事が出来るのだろうか。この問いは我々を哲学の始まりの地、ギリシアへと運んでゆく。そこにいた最も有名な哲学者、ソクラテスは町を歩き回ってありとあらゆる市民たちを捕まえては対話をしていたという。彼の哲学的な活動は紙に対してではなく、常に人間に対して向けられていたのだ。ここから哲学という活動において「場」というのは見過ごしてはならない大きな要素であることが分かる。

 ソクラテスの弟子プラトンが著した『饗宴』という書では男たちが集まってワイン片手に愛について語る姿が描かれる。一人が話し、それを受けてもう一人が話す、といった風に進んでゆくこの対話篇は、哲学という営みの「場」を美しく体現している。そこには大仰な書物も書き記すための紙やペンも登場しない。あるのは葡萄でできた酒と交わされる会話のみである。かくして「哲学Bar」という試みが構想された。いうなれば、「饗宴」を再現しようという目論見である。

 

 哲学Barについて

 ここで話は現代へと戻る。僕がこの企画を考えるに至ったのは知人の誘いであった。彼はイベントバーの経営を望んでいて、イベント企画者を求めていた。最初彼は僕に「ギリシア語Bar」をしてほしかったそうだが流石に来る人が限られてしまうだろうとの考えから哲学Barと称する企画をした。僕のようなひよっこが哲学を語るなど恥を知れとの声が聞こえそうだが、それは重々と承知の上である。実のところ僕が主体で語る場を設けたのではない。このBarのコピーは「愛、語れます」としたのだが、その通り来ていただいた方々に主体的に話してもらう場を作ったのである。僕が務めたのはその話し合いを円滑にするという役、つまりファシリテーターであった。僕にとって初めての試みであった哲学Barはどのようにして進んでいったのか、その一端を記すこととする。

 

  全体的な流れ

 我々は先ず各々の事を知ることから始めた。友人と一緒に来ていただいた人や一人で来ていただいた人など様々であった。適当に横の人とペアになってもらい、「犬と猫どちらが好きか」などと言ったパーソナルなテーマについて話し合ってもらった。これは論理的にではなくパーソナルに話してもらうことでその人のひととなりが分かるという僕の考えからだった。そのようなアイスブレイクを一通り終えた後、主題である愛について語ることとなったが、ある人が正しくも「愛について語るには愛を分類する必要があるのではないか」と言ったので、「どのような愛が存在するか」を話し合った。だいたい四人ぐらいのグループで話してもらい、頃合いを見てグループ替えを行ったりした。そうして、家族愛、兄弟愛、恋人への愛、夫婦の愛、そして神の愛などが挙げられた。店の前に出て話すグループもいた。僕はちょろちょろと動き回って、色んな人の話を聞いていた。大変興味深い話は幾つもあったが、残念ながら逐一報告することはできない。

 特に話題となったのは恋人関連であったように思われる。ある人は愛の有限性に対する哀しみを語った。いわく、我々は恋人に愛を伝える。その時は二人は幸せで、何の問題もない。しかし、我々は恋人と別れることもある。その時、二人が交わした愛の言葉は虚無となり、欺瞞となるのである。従って、とその人は言った、私は誰かに愛していると伝えることができない。なぜなら抗いがたい時間の流れによって愛は綻んでゆくものだし、そのような有限性を感じながら愛を語ることは苦痛であるから。これに対してある人は愛というのは無限であることを話していた気がするが、残念ながら思い出すことはできない。発せられた言葉というのは飛び去って行く。それを書き留め、しっかり捕まえることの重要さを、僕は忘れていたのかもしれない。

 

 

 このようにして午後7時半からスタートした哲学Barは人が入れ替わりながら午前4時まで続き、店は閉まった。『饗宴』のソクラテスのように、朝まで起きて話すことが僕には出来なかったのは残念であった。愛の探究はまだまだこれからだと実感しながら、僕は寝床に着いた。