classics-disco’s blog

西洋古典学を学ぶ一学生のブログ

眠れぬ夜の独り言──教育について

さっき珈琲を飲んだせいか眠れない。だから寝るのを諦めて、雨の音でも聞きながら久々にブログを書くことにしました。全くとりとめのないことを書くつもりなので、暇じゃない人には(そんな人はこんなブログ読まないだろうけど)おすすめできません。

 

実はもう、今学期の大学の授業は終わって、今は期末試験期間です。そのため一年で最も忙しい時期の一つが、今です。レポートとテストの勉強に追われながら、「来学期はもっと忙しくないように履修を組むぞ」と思ってるけど、結局毎学期同じ思いをしてる気がする。これはきっと卒業するまで変わらないんだろうな、と思う。

 

そのレポートの一つは「西洋古典文学」という題の授業なので、(classics-discoなどと称している)僕としては全身全霊で挑まざるを得ない。その担当の先生は「A(最高成績)は、本当に優秀な生徒にしかあげない」と言っていたので、負けじと余計やる気に火がつき、ここ数日はず~~~~~っとそのレポートを書いていました。さっきとりあえず書き終えたんですが、ワードって10ページ越えてくると眼に見えて動作遅くなるんですね。僕は初めて知りました(卒論みたいな分量の時困らないのか……?)。

 

ちなみにそのレポート課題はエウリピデス『ヒッポリュトス』についてでした。この劇は、端的に言ってめちゃくちゃ面白く僕のお気に入りの一つです。でも内容が難しい。なんか、一筋縄じゃ行かないんですよね、この劇。「でもそれが文学の醍醐味だろ!」という声が聞こえてきますが、とにかくレポート書くのが骨でした。後は印刷して提出して成績評価を待つのみです。

 

ところで、僕はアルバイトで家庭教師をしているんですが、やっぱりこれもレポートと同じくらい骨なんですよね。当然ですが、めちゃくちゃ学習意欲があって勉強ができる子は、はなから家庭教師を必要としていないので、家庭教師先の生徒は必然的に学習意欲が少なめなわけです。そして彼・彼女のやる気を引き出すのが仕事なわけです。ムムム……

 

だけれども、やっぱり人のやる気を出させる奇跡と言ってもいいくらいの難行だと思う。教育を仮に「人をより良い方へ変えること」だと定義すると、そこには必然的に「変化」が伴う。ある人がぼくに「人に何かしらの変化をもたらすのって、その責任を考えるとめちゃくちゃ怖いよな」と言ってた。その言葉が今もずっと残っている。確かに、人ひとりの人生を変えるのって相当責任があるし、難しい。たかがアルバイトといえ、である。

 

話が交錯が、ヒッポリュトスという人物は「俺は生まれながらにして高潔な人間だ」と言って憚らない人間で、まあそのせいで神に滅ぼされちゃう悲劇の主人公なんですが、彼は明らかに「教育」の可能性を認めていない人なんです。

 

いつもなにごとにつけ思慮深くあることを、教えられたのではなく、生まれながらに与えられている者だけは、ここで花を摘むことを許されているのです。(八〇ー八二)

 

 

「俺は教育されなくても生まれつき思慮深いんだ!」と言ってるやつが本当に思慮深いはずないだろ!と普通は思いますよね。多分エウリピデスもそう思ってたと思います。だからこそ、僕は「生まれつきの才能」ですべてを説明しようとする意見(あいつの成績が良いのは生まれつきのセンスだ、など)には反対である。そうではなく、「教育」が持つ力、人を変化させ、より良い生を歩むようにする奇跡、を信じています。ヒッポリュトスは結局悲惨な苦しみを味わい、肉は裂け骨は砕ける苦痛の中、ようやく「本当の思慮深さ」を手にする(と僕は解している)のだけど、一般的な「教育」も、ある意味それくらいのショックはあると言える気がする。結局、でも、自分に人を教育する資格はあるのか?と自問してもなかなか自信たっぷりに肯定することはできない。ムムム……