classics-disco’s blog

西洋古典学を学ぶ一学生のブログ

出会いと学び

 先日僕がTwitterやこのブログでプラトンの『クリトン』を読んで勉強していることを書いたらある人が「うちの大学で『饗宴』を読む授業があるんですが来ませんか」と誘ってくださった。何とありがたい!と思いながら僕は初めて他大学の授業に参加することになった。やはりギリシア語を独学するのは、不可能とまでは言わなくても、難しい。東大の西洋古典の教授が学生に対してこう書いている。

 

「学問は一人で学ぶもの」と言う先生は多いが、少なくとも学士過程に関しては、筆者はそうは思わない。人は競争(他人に負けたくない)によって学ぶ。西洋古典専攻の学生は多くはないが、多くはないからこそ「力を合わせて競争」してほしい。

 

 

僕の大学でも西洋古典学の学生は片手で十分に数えられる程度しかいないが、今回Twitterを通して他大の学生ともつながることができてとてもうれしい。Twitterは偉大である。

 

 また、今回の件だけでなく、僕のギリシア語ビギナーの道は多くの人の助力や出会いによって成り立っていることに気づかされた。最初は大学入ってすぐ、西洋古典学の先生とたまたま出会い、履修の関係で授業が取れなかったラテン語ギリシア語を先生のオフィスでやり始めることになったのがきっかけだった。それからは西洋古典学の名誉教授にギリシャ旅行に連れて行ってもらって改めてギリシャに惹かれた。そしてその旅行でたまたま出会ったのはこれまた西洋古典学の権威である田中利光先生の奥様で、僕は田中先生とは面識もないのにかかわらず先生の蔵書の一部を僕に譲って下さった。その蔵書はギリシア語辞書の中でも最も権威のある辞書や文法書、ラテン語の辞書、The Oxford companion to classical literature、ギリシア新約聖書など相当価値のあるものばかりであった。これは一生使える宝物である。

 

 これだけでなく、他のもろもろの人からも僕は学習教材をいただいている。大学の教授からはラテン語の教科書やギリシア語のコンパクト版の辞書をいただいたし、最近ではヘブライ語を履修することを僕がTwitterで呟いたら、僕の大学の先輩から「ヘブライ語の辞書があるんですが送りましょうか」とこれまたヘブライ語辞書・聖書を譲っていただいた。改めて自分は恵まれた学びの場にいるということを認識して、その喜びを噛みしめている。なにより、辞書を手に取る度に、それを使っていた人達の顔が浮かぶのって、なんだかステキだと思いませんか。

ギリシア語ビギナーの道

 先学期を以てようやく、僕は初級文法の授業と、新約ギリシア語を履修し終えた。春休みに入ったので、何か別のギリシア語で書かれたものを読んでみようと図書館へ行き、まず僕が手に取ったのは『イリアス』。古びた『イリアス』を開いてみた。無理だった。コメンタリーを読んでも全然わからん。諦めて、次に、僕はプラトン『饗宴』を借りて帰り、ノートにギリシア語を写して辞書を引いて分析を始めた。しかしこれもむずい。『饗宴』はプラトンの中でお気に入りの作品なので(プラトンの作品全部は読んだことないにわかなのですが)いけるかなと思ったが無理だった。よくよく考えると僕のギリシア語学習歴はたかだか一年足らずである。だったら、そりゃ仕方ないよなと自分に言い聞かせるもやはり春休みまるまるギリシア語をさぼるわけにもいかず、何を読むべきか悩みに悩んだ。ネットで情報を集めたり、大学のシラバスで過去の「ギリシア語講読」の授業でで何を読んでいたのかを調べたりした。そうして僕はようやくプラトン『クリトン』がよさそうという情報を得、早速アマゾンで購入した。クリトンは日本語だと本当にすぐ読めてしまうくらい短い。届いた本を開いてみると、ギリシア語本文は20頁しかないので「これは読めそうだ」という気にさせてくれる。これは僕のようなギリシア語ビギナーにとって、モチベーションを保つためにとても重要である。ギリシア語ビギナーの皆様、『クリトン』おすすめです。読み切れそうでワクワクします。では、『クリトン』のギリシア語がどんな感じなのか、ちょっと紹介してみたいと思います。

 

 

Σωκράτης
τί τηνικάδε ἀφῖξαι, ὦ Κρίτων; ἢ οὐ πρῲ ἔτι ἐστίν;
ソクラテス「なぜこの時間に君は来たのかい、クリトン。あるいは、まだ早いんじゃないかい。」
Κρίτων
πάνυ μὲν οὖν.
クリトン「確かにそうだ。」
Σωκράτης
πηνίκα μάλιστα;
ソクラテス「今は何時くらいだろう」
Κρίτων
ὄρθρος βαθύς.
クリトン「日の出前だ」

こう見てみると、冒頭というのもあり、一文一文が短いことがよくわかります。そして、文章が短い文文法のおさらいがやりやすいです。例えばἀφῖξαιは、パッと見原型が判らなかったのですが調べるとἀφικνέομαιの完了形だと判りました。こんな感じで復習になります。頑張って近いうちに読み切ろうと思います。余談ですが、『饗宴』とは段違いに難易度が違うので、プラトンは意識的に難易度を変えて対話編を執筆したんじゃないか?なんて思いました(あくまで

 

Plato: Crito (Bcp Greek Texts)

Plato: Crito (Bcp Greek Texts)

 

 

推測ですが…)。

 

 

「無知の知」という誤謬──「自分が知らないということ」を知る?

 はじめに

 先日納富信留先生の『哲学の誕生』(ちくま学芸文庫)をとても面白く読み終えました。この本はソクラテスとは何者か?という問いを中心に、古代ギリシアにおける哲学の誕生そのものを論じています。本書は、ソクラテスが毒薬を飲み、残された周りの人びと(プラトン含む!)が彼を追悼して著作を始めたという、まさにその「不在のソクラテスとの対話」に哲学の誕生を見る。

 

哲学は、いつ始まったのか?最初の哲学者は、ソクラテス──あるいは、タレスピタゴラス──というよりも、彼と対話し、その記憶から今、哲学を始める私たち自身でならなければならない。

 哲学は、つねに、今、始まる。(316頁)

 

この魅力的な言葉で締められているのは、本書第六章「『無知の知』を退けて──日本に渡ったソクラテス」である。この章は、驚くべきことに、日本では人口に膾炙しているこの言葉が、実はプラトンにおいては一度も登場しないこと、そして誤解されて定着してしまったことを論じている。もしかすると哲学の専門の人たちにはよく知られているのかもしれないが、少なくとも僕には衝撃だった。なにしろ「ソクラテス=無知の知」と暗記していたから。しかし、ここで「ああそうか無知の知は間違っているのか」と鵜呑みにするのは危険なので、僕なりにしっかりと考えてみた。結論として、ソクラテスが自分は無知であることを知っているとは言っておらず、自分が無知であると思う、と明らかに峻別して述べている、という納富先生の指摘は正しいと思われる。そのことを『ソクラテスの弁明』の原文から見ていきたい。

 

 ソクラテスの弁明

 『ソクラテスの弁明』21Dはソクラテスアポロンの神託について、そして人間の知について話している有名なシーンである。ソクラテスは、自分よりも賢い者を探してみるも彼は知らないのに知っていると思っているのだと述べ、その点で自分は彼よりも賢いと語る。まず日本語訳を引用してみる。

 

しかしわたしは、自分一人になったとき、こう考えた。この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らないらしいけれども、この男は、知らないのに、何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりに、また知らないと思っている。(田中美知太郎・池田美恵訳、新潮文庫

 

πρὸς ἐμαυτὸν δ᾽ οὖν ἀπιὼν ἐλογιζόμην ὅτι τούτου μὲν τοῦ ἀνθρώπουἐγὼ σοφώτερός εἰμι: κινδυνεύει μὲν γὰρ ἡμῶν οὐδέτερος οὐδὲν καλὸνκἀγαθὸν εἰδέναι, ἀλλ᾽ οὗτος μὲν οἴεταί τι εἰδέναι οὐκ εἰδώς, ἐγὼ δέ, ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι:

 

これをよく読んでみると、οἶδα(オーイダ)とοἴομαι(オイオマイ)という語が区別されていることが判る。判り易く分けてみる。

 

①κινδυνεύει μὲν γὰρ ἡμῶν οὐδέτερος οὐδὲν καλὸνκἀγαθὸν εἰδέναι「この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らない(オーイダ)けれども」、

 

②ἀλλ᾽ οὗτος μὲν οἴεταί τι εἰδέναι οὐκ εἰδώς「この男は、知らない(オーイダ)のに、何か知っているように思っている(オイオマイ)が」


③ἐγὼ δέ, ὥσπερ οὖν οὐκ οἶδα, οὐδὲ οἴομαι「わたしは、知らない(オーイダ)から、そのとおりに、知らないと思って(オイオマイ)いる。

 

この通り、ソクラテスは「知らないことを知る(オーイダ)」とは言っておらず、「知らないと思って(オイオマイ)いる」と言っていることが明白である。これは彼が「汝自らを知れγνώθι σαυτόν」というアポロンの格言から、「知ある者は神のみ」であることを解し、人間として最大の知である「自らの無知を自覚する(オイオマイ)」という境地に達したことを表す。

 

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恋に焦がれるエコーとクールなナルキッソスの神話

 ラテン語の初級文法を春~冬学期にかけて終えたので、力試しにオウィディウスの『メタモルフォーセース』(変身物語、転身物語などと訳されている)を読んでいる。これまで3.339~401まで読み進めた。ここまでの話をざっくり要約してみる。

 

ある所にナルキッソスという美男子が生まれた。彼は占い師にこう告げられる──「自分のことを知らなければ長生きできるだろう」と。ナルキッソス君は男からも女からもモテモテで、ついにはニンフ(妖精?)であるエコーすら恋に落ちる。このエコーは昔、ユーノー(ヘラ)女神の怒りを買って同じことを繰り返すことしかできなくなったのだ。彼女は迷子になっているナルキッソスを見かける。勢いあまって彼に抱き着くも拒否されたエコーは、失恋のショックでやせ細りついに身体は消滅して声だけの存在になってしまった…

 

哀れなエコーちゃん!僕らが山で「やっほー」と叫ぶのを返してくれる、あの彼女に、そんな辛い過去があったとは…!ナルキッソス君は人の心がないのか?とエコーちゃんに共感してまう。実際、ナルキッソス君は

 

sed fuit in tenera tam dura superbia forma(3. 354)

「彼の柔肌にはこれ程に堅牢なsuperbia(自尊心)があった」

 

 

と称されている。見た目はtener(やわらかい、弱い、優美)なのに、内に秘めたプライドはdura(堅い、丈夫な、武骨な)だ、という対比が為されている。

 

 エコーは、しかし、そんな彼に恋してしまった。彼女の恋が燃え上がる姿をオウィディウスは見事に描いている。ナルキッソスを見かけたエコーは彼に歩み寄っていく。

 

quoque magis sequitur, flamma propiore calescit, non aliter quam cum, summis circumlita taedis, admotas rapiunt uiuacia sulphura flammas. (3.372-373)

「(ナルキッソスに)近づくにつれ、彼女の炎はより燃えるのだった。それはちょうど、硫黄を塗られた松明が、近づけられると、パッと炎を奪う様とおなじだった。」

 

 

硫黄に火を燃やす効力があったとは知らなかったが(笑)、「恋の炎」というイメージは古代ローマで既にもう存在していたのは驚きだった。パッと燃え上がる炎がありありと目に浮かぶ、オウィディウスのこの描写には感嘆せざるを得ない。

 

 仲間とはぐれたナルキッソスは「誰かいるのか?」と呼びかける。ここからが面白い。エコーは、相手の言葉の繰り返ししか許されていない。だが、繰り返す言葉を選ぶことはできる。つまり、その気になれば返事を返すこともできるのだ。

 

Narcissus: ecquis adest?

「誰かいるのか?」

Echo: Adest.

「いる」

 

 

と肯定文にすることでエコーは返事をすることに成功している!(ナルキッソスが気づいているかは不明だが)。「ここへ来い!」、ナルキッソスが言う。「ここで会おう!」「会おう!」とエコーはそのまま繰り返して、恋を抑えられずにナルキッソスに抱き着いてしまう。勿論高慢なナルキッソスが自分を抱かせるはずもなくそれから逃れようとする。

Nar: “manus complexibus aufer! ante” “emoriar, quam sit tibi copai nostri.”

Echo: “sit tibi copia nostri!”(3. 390-391)

 

 

 

ここは訳すのが難しいところだ。岩波訳では

 

ナルキッソス「手を放すのだ!抱きつくのはごめんだ!」「いっそ死んでから、君の自由にされたいよ。」

エコー「君の自由にされたいよ!」

 

 

ナルキッソスは「そんなことされたくない!」と否定している一方で、エコーは「そうしたい!」とこれまた肯定しているのだ。しかし、これを日本語で表すのは難しい。人文書院訳では

 

ナルキッソス「手をのけてくれ。抱きついたらいやだ。」「死んだほうがましだよ、君の思い通りになるくらいなら!」

エコー「思い通りになる……」

 

 

と、「……」を使ってエコーの気持ちを表すのに成功している。どちらも共通してナルキッソスの台詞を繰り返して、うまくエコーの意図を汲もうとしていると言える。これらの訳を踏まえて僕は

 

ナルキッソス「手を放せ!抱くのはやめろ。」「君に抱かれるなんてこと、死んで

も嫌だ!」

エコー「君に抱かれるなんて……!」

 

と訳してみた。「君に抱かれるなんて……!(ルンルン)」という感じだ。僕の翻訳の是非は横に置き、ともかくオウィディウスは面白い。



 

ギリシア悲劇の解釈を巡る論争──「イオカステはいつ知ったか」という問い──

 はじめに

 僕は先学期に履修していた「西洋古典文学」という授業の期末レポートとして「イオカステはいつ気づいたか」と題するレポートを書いた。その時に特に参考にしたのは川島重成『アポロンの光と闇のもとに』(詳細下記)という本で詳しく論じられている、イオカステの認知は従来言われていたもの(1056行)よりも実は早く、彼女は793行の時点で既にオイディプスが自分の息子であることに気づいたのではないかという趣旨の論考だ。その時に是非とも参照したいと願いながらも残念ながら大学の図書館になかったので手に取れなかった、丹下和彦『ギリシア悲劇ノート』(詳細下記)が今日図書館に届いたので手に取った。この本には先に挙げた川島先生の説を直接的に挙げて批判しているのだ(こういう学者同士の論争みたいなのって人文学以外の分野でもよく見られるんですかね?この類で言うとエラスムスとルターの自由意志を巡る論争なんかもありますよね)。この二つの論を整理して持論を展開するのが本来の筋だろうけれど、それはせず、二人の学者の解釈を見比べ、古典文学を勉強している学生として僕が面白いと感じた点を書こうと思う。

 

 “解釈”という営み

 ギリシア悲劇を含め、文芸作品を読んでどう理解するのかというのは難しい問題である。ある人が僕に以前「文学って人それぞれに解釈するものでしょ?」と言ってきて困惑したことがある。確かに、「感想」はその人個人のもので他の人がとやかく口出すものではない。だが「解釈」という話になるとそこには根拠というものが必要になってくる。「この作品を通して、作者は~ということを伝えたがっています」と論じるためにはなぜそう主張できるのか、という問いに答えられないといけない。

 川島先生は、イオカステの神託への言及が何故か二度為されている事実に対して、これはイオカステが793行で既に「気づいて」いたことの論拠としている。一方で丹下先生は様々な論拠を挙げてその説を批判しているが、最も大きな批判点としてこれはそもそも劇であった事実を挙げ、川島説のような緻密な読解はギリシア悲劇の上映を観ていた観客にとって、容易に気づけるものではなかっただろうと言う(実際に観ている古代ギリシア人はイオカステが793行で気づいたなんて言わないだろう!という趣旨だと思われる)。丹下先生は最後に「これはやはり書斎で何度もテクストを読み返したあげくに辿り着いた机上の試論なのではあるまいか」と言って川島説を退けている。ここに二人の古典学者のギリシア悲劇の解釈を巡る差異が認められる。

 

 ギリシア悲劇の解釈

 丹下先生が『ギリシア悲劇ノート』の序章で述べているのは、ギリシア悲劇はそもそも演じられるために著されたという事実である。今僕らが手にしているのはあくまでシナリオなのだ──これは当然のことのように思われるが、敢えて特筆するに値すると述べているのは、彼のギリシア悲劇解釈に大きく影響しているからに違いない。丹下先生は冒頭で

 

[ギリシア悲劇の]シナリオを文学的に読み込むということは決して意味のないことではない。...それがしかしあまりにも極端に過ぎ、時に独善的な読み方に陥ることもなかったとは言えない。(6頁)

 

 

と述べているが、これはテキスト(シナリオ)を読んで解釈する現代の学者たちに対し、ギリシア悲劇の本質的な特徴(それが上映されていたという歴史的背景)を忘れてはならないという警鐘だと思われる。それはとても重要なことだと思う。叙事詩でも抒情詩でも、それらがどのように詩人たちによって創られ、人びとがどのように作品と降れていたのかを考慮するのは不可欠だろう。悲劇などの解釈という点では、僕らは古代ギリシアに戻って劇を鑑賞することができない以上、やはり作品解釈の論拠となるのはテキストに拠らざるを得ないのではないだろうかとも思う。僕が古典文学のテキストの文化背景についてより詳しく調べる必要を感じた(そしてそれは「テキストとはなにか」という問いにもつながる)ので春休みを利用して、この文化背景を学ぶために『古典の継承者たち』(詳細下記)という本を読むことにする。

 

 

アポロンの光と闇のもとに―ギリシア悲劇『オイディプス王』解釈

アポロンの光と闇のもとに―ギリシア悲劇『オイディプス王』解釈

 

 

 

 

ギリシア悲劇ノート

ギリシア悲劇ノート

 

 

 

古典の継承者たち―ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史

古典の継承者たち―ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史

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エコーの繰り返しと翻訳

 現在僕はドイツ語の勉強として『星の王子さま』をドイツ語訳で読み進めながら、同時にラテン語の勉強としてメタモルフォーセースのナルキッソスとエコーの箇所を訳している。僕が今訳すのに困っているのは、ナルキッソスとエコーの会話部分だ。ご存知のようにエコーというニンフは人の言葉を繰り返すことしかできなくされてしまったので、自分から話し始めることはできない。だから、ナルキッソスの言葉を上手く切り取ってエコーすることで、自分の言葉にしているのだ。例えば、

 

”ecquis adest?” et “adest” reponderat Echo.  (3. 380)

 

 

これはナルキッソスが「誰かいるのか?」といったのに対し、adest「誰かいる」だけ繰り返すことで、「誰かいるのか?」→「誰かいる」(のか)と会話になっているという手法だ。これはなかなか面白い!ラテン語のこの表現を日本語で置きなおすのはどうすればいいだろう?さっきは「誰かいる<のか>」という表現を用いて翻訳してみたが、次の

 

emoriar, quam sit tibi copia nostri.” (3. 391)

“sit tibi nostri!” (3. 392)

 

 

は直訳すると「僕は死のう、君が僕の自由を持つ前に」「君の自由を(私が)持たんことを!」みたいな会話になっていると、まず文意がちょっと難しい(注釈書では I will die before I have sexと訳されている)し、なにより訳しづらい。中村善也先生は「いっそ死んでから、<君の自由にされたいよ!>」→「君の自由にされたいよ!」と訳している。この箇所はラテン語を読む前はよくわからなかったのだがラテン語の語順の問題と気づいてからは上手く訳されているなあと感心している。しかし、「いっそ死んでから、君の自由にされたいよ!」では「君の自由にされたい」という意味が強くなりそうな気がする。ナルキッソス君は、「君に犯されるくらいなら僕は死んでやる!」ということを言っていると思われるから、文意を明確にしつつ、かつ上手く復唱できるように訳したい。

 

 こう悩んでいると『星の王子さま』にもエコーが登場することを思い出した。それは王子さまが地球に来て、「僕と友達になってよ」と言うのだが誰も答えずこだまが帰ってくる、という場面だ。

 

「友達になってくれませんか。ぼく、ひとりなんだ」

「ぼく、ひとりなんだ……ぼく、ひとりなんだ……ぼく、ひとりなんだ......」とこだま(河野万里子訳)

 

 

王子さまはここで人間たちの想像力のなさ(同じことを繰り返すだけ!)を批判し、置いてきたバラはいつも僕より先に話したと回想する。この場面は、ナルキッソスのシーンととても似ているので、お手本になっているんじゃないかと思われる。勿論『星の王子さま』ではエコーは「人間の想像力」の問題提起のために使われているのに対し、メタモルフォーセースではエコーは激しく恋する乙女のニンフとして扱われているので役割としては違う。しかし、このような文学的手法として、<エコーの繰り返し>が伝統的に受け継がれているのだとすれば、やっぱり古典の影響力は計り知れないなあ、と愚にもつかない感想を覚えた。

『ホメロス「イリアス」への招待』②

 前回に続き『ホメロスイリアス」への招待』を読んだ感想です。初めはきちんと論文をまとめて内容を紹介する気だったのですが、結構時間かかりそうなので主観的な感想を大目に綴ることにしました。

アキレウスの怒りと人間性の輝き

 「アキレウスの怒り」という主題を巡る論考を読んだ。僕が一年の時に初めて書いたイリアスのレポートも同じことを扱ったのを思いだす。先生は僕のレポートをきちんと赤で添削して返して下さった。今でもそのレポートは大事に持っている…

 

 「アキレウスの怒り」はどのような終わりを迎えたか?という問いに対する答えとして説得的なのは川島重成『「イーリアスギリシア叙事詩の世界』で詳しく述べられているが、プリアモスとの会合による、敵味方を越えた、死すべき者同士としての共感によって、蚊の怒りは終息を迎える。

 

彼ら[アキレウスプリアモス]が悲惨のなかにあって放つこの人間性の輝きこそが、

アキレウスの怒り」という主題を真に豊かに終熄にもたらすものであったと理解

できるのです。(245頁)

 

この「人間性の輝き」というアイデアは、今日でもまだ、否、寧ろ今日ではよりアクチュアルな問題であるように思われる。僕は個人的に人間性に対する問題意識を持っているのだが、『イリアス』のこの和解の場面は強烈な印象として残っている。確かに、『イリアス』の舞台は戦場で、しかも神々が生き生きと描かれているから、僕らの日常とは離れた印象を受けるかもしれない。けれども人を好き/嫌いという価値判断で分けることは意識的/無意識的に行われているし、「生理的に無理」などとった理由で人を虐めることも学校ではよくあることだ。「親子間の愛」ですら確かなものではなく、親が子を殺すニュースは現に後を絶たない。このような時代に生きる僕らは一体どのように人と向き合えばいいのだろうか。このような問いはもちろんイリアスで語られているわけではないのだが、重要な問いとして記しておきたい。

 

なんと気の毒な、あなたもその心中にさまざまな不幸を忍んでこられたのだな。...

苦しいことごとは、辛いことではあるが、胸の内にそっと寝かせておきましょ

う。...そのように神々は哀れな人間どもに、苦しみつつ生きるように運命の糸を紡

がれたのだ──。(24巻)

 

アキレウスはこのように死すべき存在である人間は神とは違い苦しむ運命にあるということを述べている。彼の人間理解は悲観的にも聞こえるが、同時に人間すべてを「悲劇の担い手」(川島, 232頁)として理解する、重要な洞察である。この人間理解を、「人格の尊敬」や「人権」といった近代の諸概念と比較するのも興味深い試みになるだろう。