classics-disco’s blog

西洋古典学を学ぶ一学生のブログ

エコーの繰り返しと翻訳

 現在僕はドイツ語の勉強として『星の王子さま』をドイツ語訳で読み進めながら、同時にラテン語の勉強としてメタモルフォーセースのナルキッソスとエコーの箇所を訳している。僕が今訳すのに困っているのは、ナルキッソスとエコーの会話部分だ。ご存知のようにエコーというニンフは人の言葉を繰り返すことしかできなくされてしまったので、自分から話し始めることはできない。だから、ナルキッソスの言葉を上手く切り取ってエコーすることで、自分の言葉にしているのだ。例えば、

 

”ecquis adest?” et “adest” reponderat Echo.  (3. 380)

 

 

これはナルキッソスが「誰かいるのか?」といったのに対し、adest「誰かいる」だけ繰り返すことで、「誰かいるのか?」→「誰かいる」(のか)と会話になっているという手法だ。これはなかなか面白い!ラテン語のこの表現を日本語で置きなおすのはどうすればいいだろう?さっきは「誰かいる<のか>」という表現を用いて翻訳してみたが、次の

 

emoriar, quam sit tibi copia nostri.” (3. 391)

“sit tibi nostri!” (3. 392)

 

 

は直訳すると「僕は死のう、君が僕の自由を持つ前に」「君の自由を(私が)持たんことを!」みたいな会話になっていると、まず文意がちょっと難しい(注釈書では I will die before I have sexと訳されている)し、なにより訳しづらい。中村善也先生は「いっそ死んでから、<君の自由にされたいよ!>」→「君の自由にされたいよ!」と訳している。この箇所はラテン語を読む前はよくわからなかったのだがラテン語の語順の問題と気づいてからは上手く訳されているなあと感心している。しかし、「いっそ死んでから、君の自由にされたいよ!」では「君の自由にされたい」という意味が強くなりそうな気がする。ナルキッソス君は、「君に犯されるくらいなら僕は死んでやる!」ということを言っていると思われるから、文意を明確にしつつ、かつ上手く復唱できるように訳したい。

 

 こう悩んでいると『星の王子さま』にもエコーが登場することを思い出した。それは王子さまが地球に来て、「僕と友達になってよ」と言うのだが誰も答えずこだまが帰ってくる、という場面だ。

 

「友達になってくれませんか。ぼく、ひとりなんだ」

「ぼく、ひとりなんだ……ぼく、ひとりなんだ……ぼく、ひとりなんだ......」とこだま(河野万里子訳)

 

 

王子さまはここで人間たちの想像力のなさ(同じことを繰り返すだけ!)を批判し、置いてきたバラはいつも僕より先に話したと回想する。この場面は、ナルキッソスのシーンととても似ているので、お手本になっているんじゃないかと思われる。勿論『星の王子さま』ではエコーは「人間の想像力」の問題提起のために使われているのに対し、メタモルフォーセースではエコーは激しく恋する乙女のニンフとして扱われているので役割としては違う。しかし、このような文学的手法として、<エコーの繰り返し>が伝統的に受け継がれているのだとすれば、やっぱり古典の影響力は計り知れないなあ、と愚にもつかない感想を覚えた。