classics-disco’s blog

西洋古典学を学ぶ一学生のブログ

狸を描くことについて——『平成狸ぽんぽこ』より

 擬人化という営為

 人が動物や植物などの非人間的存在をあたかも人間かの如くに描くのは古来から現代までずっと行われていた。例えば古代ギリシアではイソップ物語において様々な動物が擬人化されている。「ウサギと亀」、「酸っぱい狐」などの物語を知らない者はいないだろう。近現代でもサンテグジュペリ星の王子さま』においては、王子様の恋人は植物である薔薇として描かれ、彼に「本当に大切なこと」を教えてくれるのもまた、動物たる狐である。では、動物を擬人化する意義とは何だろうか。

 例えば「ウサギと亀」ではウサギは自己を過信する者、亀は堅実に努力を続けられる者として明確に描き分けられ、最終的に亀が勝利することでこの物語は読者に「驕る者は敗れる」、「油断大敵」などと言ったメッセージ(教訓)を与えている。「酸っぱいぶどうと狐」も同様に、自ら得ること能わないものを、「あれは酸っぱいに違いない」と決めつけ、自分を安心させようとする自己欺瞞が描かれている。ここで重要なのは、これらの動物は人間に置き換え可能ということだ。言い換えれば、ここでは動物は人間の代わりをしている(representation)に過ぎない。読者はイソップ物語を読むことで「あの人はまるでこのウサギのようだ」とか「彼は酸っぱいぶどうと狐の、狐のような人だ」などと自分の周りにいる実際の人を想起することができるようになる。また、『星の王子さま』の薔薇はプライドの高い人間の女性がなぞられ、オーウェル動物農場』の動物たちは「動物として」描かれているのではなく、人間の代わりをしている*1。動物の擬人化は人間をrepresentation することで、より普遍的なレベルのメッセージや教訓を伝えることができる、つまるところ、擬人化の意義はそこにあるのだ──と取り敢えずは言えるだろう。

 

 日本人の心性(?)

 前述したのは西洋というコンテクストにおける擬人化であったが、日本というコンテクストにおいてはどうだろうか。端的に言って、日本人は大の擬人化好きである。昔話の桃太郎は仲間として動物を連れて行くし、江戸時代に描かれた「鳥獣戯画」をはじめとして、最近だと──少しやりすぎの感は否めないが──戦艦すら擬人化されている。日本人があまりに擬人化するので、それを揶揄するための特別な用語(“Japanizing Beam”というらしい)が存在する程である。なぜ日本人はこれほどに擬人化するのだろうか。

 これは、日本人が超自然的なもの(河童や座敷童などといった妖怪)の存在を素朴に受け入れていたことに起因するように思われる。つまり、キリスト教的な自然の見方では、人間は「神の似姿」として創造されており、そのため他の動物と一線を画している存在であるが、他方日本の国生み神話では「生む」「成る」といった自動詞が用いられ、創造主を前提としない、「おのずからなる」自然観が基調となっている*2。そのため、日本における擬人化は、西洋のrepresentationのそれとは違って、むしろ「自分達の隣にいる者」という感覚のように思われる。representationにおいて、視点は垂直的な方向であるが、「隣る者」には並行的である。そのような日本人の心性を背景として、『平成狸合戦ぽんぽこ』(以下単に『ぽんぽこ』)は描かれている。本作において、主人公は狸たちである。彼らはイソップ物語のそれ──つまり人間の代わりとして──ではなく、「狸として」狸が描かれている。ここでは、「狸たる狸」を描くことの意義を考察する。

 

 狸の動物性

 『ぽんぽこ』は狸同士の縄張り争いという、実に動物的な行為から始まる。しかし、ここでは狸らしからぬ思慮を持つキャラクターである「おろく婆」によって戦闘を中断させられる。おろく婆の歌う歌は一見ギョッとする程に戦争の無益さを歌い上げる。

フレーフレー、鷹ヶ森。フレーフレー、鈴ヶ森。赤勝て青勝て、どっちも負けろ。負けたタヌキをぶっ殺せ。鷹ヶ森が今日消えた。鈴ヶ森は明日消える。タヌキはダブつき居場所がない。ダブつきタヌキはどこへ行く?どこへも行けないオダブツだ。赤勝て青勝てどっちも負けろ。負けたタヌキをぶっ殺せ。みんなのためだ、ぶっ殺せ。死なばもろとも、ナンマイダ。タヌキを減らせ、れんげきょう。残ったタヌキは身をつつしんで、子ども増やすなナンマイダ。子ども増やせば元のもくあみ。森がないんだ、れんげきょう

おろく婆の言っていることは矛盾している(「赤勝て青勝て、どっちも負けろ」)、が、それはこの争いが無益であることを端的に言い表している。つまり、縄張り争いをしている場合ではなく、「森がなくなること」が問題だ、と言っている。

 こうしておろく婆は極めて効果的に闘いを休止させ、狸一同は「山が壊されるのを防がねばならない」と共通の認識を得る。このように狸たちは動物的な面とともに、理性的な面もあるように描かれている。これは一見、狸たちも人間化されているように見えるかもしれない。事実確かにそうなのだが(そうしなければ物語は成り立たない)しかし、この物語は「狸たる狸」を描いていることに変わりはない。狸を狸たらしめるのは、古来よりお馴染みの「変化術」である。本作では「化学(ばけがく)」と称されており、われわれの言うchemistryと対立させられている。

 

 狸v.s.人間

 人間の持つ化学と、狸の持つ化学──ここからこの二つがぶつかり合う。だが力の差は歴然である。

人間てのはすごいですね。それまでは私たちと同じ動物の一種かと思っていたんですが、今度のこと[多摩ニュータウンの開発]でどうやら神や仏以上の力を持ってるらしいってことがよく分かりました。

狸たちはもちろん、人間を滅ぼすほどの力はないし、はたからそんなことを目指してもいない。彼らの目的はただ、人間たちに山を破壊させないようにすることのみだ。狸たちの作戦は見事功をなし、人間を追い払うことに成功する。その結果、何人かの人間は死んでしまう。

 ここで人間たる我々は、「人が死んでいる」のにもかかわらず、勝利の喜びにこらえきれず喝采を挙げてしまう狸に眉をひそめる。これは倫理的にどうなのか?──しかし、ここで我々は自然を破壊しながら、言い換えれば「狸を殺しながら」、それを問題にもしていないことに気づかされる。この作品は狸の反逆を描く。先に攻撃してきたのは人間だ、狸ならと言うかもしれない。狸の言い分も最もだ。

 この映画は「人間の自然破壊」をテーマとしていることは間違いない。しかしそれだけでは言い尽くせないのも確かである。『ぽんぽこ』は人間の傲慢たるエゴを浮かび上がらせるが、狸も同様に、強欲たる動物なのである。

あいつら みんな追い出しちまったら…もう食えないよ、 天ぷら!

「「さんまの干物!」」「「トウモロコシ!」」「「ハンバーグ! ドーナツ! フライドチキン!ポテトチップス! にわとり!」」

「俺も食いてえ!」(権太)

うむ では人間も少しは残してやることにしたらどうかね。

 宗教心

 狸の行動に、何人かの人間らは多摩の開発に対して疑問を投げかけ始める。

あれがマズかったんじゃないかな

 諏訪神社を取り払ったのが、神さまのバチが当たったんじゃないかと

 このような自然に対する配慮や敬意が、元来人間にはあった。だが人間は化学の発展とともに自然に対して敬意を払うことを止め、開発事業を進めることとなる。そこに狸たちは注目する。つまり、真っ向から戦うよりかは、人間に再び自然を敬う宗教心を植えることを選ぶ(勿論狸にとっては宗教心は関心の的ではない、あくまでも自分たちの都合のためである)。それが「双子の星作戦」であった。

赤い目玉のサソリから 広げたワシの翼を渡り 光のヘビのとぐろを巻いて コグマのひたいの真上まで お空の星をめぐりながら 露と霜とを落とします

 双子に化けた狸たちは、美しい星空を語る。実質的に彼らはなにも攻撃的なことをしていない。なのに人間たちは不気味がって逃げていった。狸の作戦勝ちである。

 この狸たちが意図せずして成功させた「宗教心の復興」は本作において重要な位置を占める。狸たちが──結局は破綻するわけだが──もし人間たちに対抗できるとすれば、人間たちに「自然への畏れ」を喚起させるのが唯一の手だからである(四国の長老らはそれに成功している。ここに東京の特異さが際立っている)。

 長老は言う。

真相究明が進めば進むほど人々が目にし体験したものは決して神経のせいなどではなく、紛れもない現実であったと認めざるを得んようになる。そしていかなる高等科学も合理的解釈もこの謎を解くことはでけんと悟った時、突然 人間たちは森羅万象の神秘に驚きいかに人間が卑小な存在であるかを思い知るのじゃ(傍線引用者)

この「森羅万象の神秘に驚きいかに人間が卑小な存在であるかを思い知る」のは古代の人々が持っていた素朴で原始的な宗教心である。もしこれが成功する様を『ぽんぽこ』が描いていたならば、『ぽんぽこ』はより一層「自然を守れ」のメッセージが強いものになっていたように思われる。その一方で「そんなことが現代人に可能か」と問われればやはり、今の時代に「自然に還る」のは現実味がないのも確かである。そのため『ぽんぽこ』は自然保護を訴えるという単純な構造ではなく、「人間とは違う視点」を創りあげることを選んだ。それが狸を描くことである。

 

 狸の敗北

 狸たちが「狸的でない」程に総力を挙げた妖怪大作戦も、人間の知(ずる賢さと言った方がいいかもしれない)の前に頓挫してしまう。力で対抗する権太らは、より強い力(暴力)にあえなく命を散らす。狸たちは間違いなく悲惨な目に遭っているのだが、彼らは「宝船」に乗り込み、じゃんじゃか歌い踊りながら天へ昇っていく。ここに「狸的ユーモア」が垣間見える。「狸を描くこと」は、ありのままの悲惨を描くのではなく、ユーモアで包みながら悲惨を描く。「とほほ…人間にはかなわないよ」と死にいく狸は言う。「人間がいかに矮小を知らしめることはついぞできなかった。だが「人間が如何に強大な力を持ち、とどまることなくその力を振るうのか」はこの狸の台詞からうかがい知ることができる。

 

 まとめ

 『ぽんぽこ』は、娯楽的な側面が強い作品である。狸たちが歌い踊り、戦い、恋し、生きていく様は愉快であり、それをただ単純に楽しむのも一つの鑑賞方法かもしれない。だがその一方でこの作品は単なる娯楽映画では在り得ない。狸たちは人間たちの自然破壊によって悲惨な境遇にあり、ある者は真っ向から戦い無残に死を遂げ、最終的に多くの狸たちは自分達を迫害した人間社会そのものに溶け込まざるを得なくなる──その様はまさに悲劇的ではなかろうか。『ぽんぽこ』は「狸たる狸」を描くことで、ユーモラスに、かつ厳粛に人間を逆照射し、我々が自らの営みに対して批判的に再考する視座を提供しているのである。





*1:「ナポレオン」なんかの固有名詞はその顕著たるもの。

*2:月本昭夫(2018)『物語としての旧約聖書』(上), NHK出版, pp. 16-17参照。

『ソクラテスの弁明』1~3章 関西弁訳

 軽い気持ちで『ソクラテスの弁明』を関西弁訳してTwitterにあげてみたら予想以上に多くの人がほめてくれてとっても嬉しかった。今まで生きててあんなに多くの人の賞賛を受けたのは初めてかもしれない、と思うほど。でも悔しいことに既に『ソクラテスの弁明』は関西弁訳されているらしい。(奇妙なことをする人もいたものだと思うけど僕も人の事は言えない)。とはいえ自分の勉強にもなるし、翻訳するのはそもそも好きだし、夏休みの間は暇を見てあげていこうかなと思う。ということで1~3章の翻訳を。

 

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『ソクラテスの弁明』勉強ノート&翻訳①

 夏休みに入りました。大学の友人たちは海外に行ったりバイトに勤しんだりしてるんですが、僕は山奥でギリシア語の修業をしています。正確にはお世話になっている名誉教授の家に住まわしていただき書生まがいのことをしながら、夜にはギリシア語を教わっています。朝起きてご飯を作ってギリシア語の復習をし、昼食を作ってギリシア語の予習をし、夜を済ませて講読をして眠って…っていう暮しをしています。

 

 そのギリシア語のテキストはプラトンソクラテスの弁明』で、一日一章ぐらいのペースで進めているんですが、初めの方にこんな文句が出てきます。

 

いずれにしても、アテナイの皆さん方、あんたらにこれを許してもらいたいんです。っていうのは、もし私が普段から慣れてる、広場の両替所(あんたらのなかでもようさん聞いたことがあるやろうけど)とか、他の場所とかで私が話すような話し方で弁明をするのを聞いても、(17D)そのせいで顔を白うしたり、ぎゃーぎゃー言うたりせんとって下さい。(拙訳)

 

これはソクラテスが、自分は裁判の場の話し方なんぞ全く知らないので、普段通りの話し方をさせてくれと頼むところなんです。だからソクラテスはわりにラフな言葉遣いをしている、と想定しなければつじつまが合わないんですが、今の日本語訳は(例えば岩波文庫のとか)めちゃくちゃ洗練された言葉遣いですよね。ってなわけで「もっとラフな言葉遣いで訳してみよう!」と思い立ち僕の母語である関西弁で訳すというチャレンジを開始してみました。もうすでに関西弁訳が出版されていることを教えてもらい、パイオニアになりそこねたのは残念ですが、まあそれはそうとしてここでゆるゆると載せていこうかなと思います。一個はギリシア語本文にできる限りの説明を付け加えたもの、もう一個は僕のオリジナル翻訳です。「ここ変じゃない?」「ここ良く分からない」みたいなのがあればコメント歓迎です。

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眠れぬ夜の独り言──教育について

さっき珈琲を飲んだせいか眠れない。だから寝るのを諦めて、雨の音でも聞きながら久々にブログを書くことにしました。全くとりとめのないことを書くつもりなので、暇じゃない人には(そんな人はこんなブログ読まないだろうけど)おすすめできません。

 

実はもう、今学期の大学の授業は終わって、今は期末試験期間です。そのため一年で最も忙しい時期の一つが、今です。レポートとテストの勉強に追われながら、「来学期はもっと忙しくないように履修を組むぞ」と思ってるけど、結局毎学期同じ思いをしてる気がする。これはきっと卒業するまで変わらないんだろうな、と思う。

 

そのレポートの一つは「西洋古典文学」という題の授業なので、(classics-discoなどと称している)僕としては全身全霊で挑まざるを得ない。その担当の先生は「A(最高成績)は、本当に優秀な生徒にしかあげない」と言っていたので、負けじと余計やる気に火がつき、ここ数日はず~~~~~っとそのレポートを書いていました。さっきとりあえず書き終えたんですが、ワードって10ページ越えてくると眼に見えて動作遅くなるんですね。僕は初めて知りました(卒論みたいな分量の時困らないのか……?)。

 

ちなみにそのレポート課題はエウリピデス『ヒッポリュトス』についてでした。この劇は、端的に言ってめちゃくちゃ面白く僕のお気に入りの一つです。でも内容が難しい。なんか、一筋縄じゃ行かないんですよね、この劇。「でもそれが文学の醍醐味だろ!」という声が聞こえてきますが、とにかくレポート書くのが骨でした。後は印刷して提出して成績評価を待つのみです。

 

ところで、僕はアルバイトで家庭教師をしているんですが、やっぱりこれもレポートと同じくらい骨なんですよね。当然ですが、めちゃくちゃ学習意欲があって勉強ができる子は、はなから家庭教師を必要としていないので、家庭教師先の生徒は必然的に学習意欲が少なめなわけです。そして彼・彼女のやる気を引き出すのが仕事なわけです。ムムム……

 

だけれども、やっぱり人のやる気を出させる奇跡と言ってもいいくらいの難行だと思う。教育を仮に「人をより良い方へ変えること」だと定義すると、そこには必然的に「変化」が伴う。ある人がぼくに「人に何かしらの変化をもたらすのって、その責任を考えるとめちゃくちゃ怖いよな」と言ってた。その言葉が今もずっと残っている。確かに、人ひとりの人生を変えるのって相当責任があるし、難しい。たかがアルバイトといえ、である。

 

話が交錯が、ヒッポリュトスという人物は「俺は生まれながらにして高潔な人間だ」と言って憚らない人間で、まあそのせいで神に滅ぼされちゃう悲劇の主人公なんですが、彼は明らかに「教育」の可能性を認めていない人なんです。

 

いつもなにごとにつけ思慮深くあることを、教えられたのではなく、生まれながらに与えられている者だけは、ここで花を摘むことを許されているのです。(八〇ー八二)

 

 

「俺は教育されなくても生まれつき思慮深いんだ!」と言ってるやつが本当に思慮深いはずないだろ!と普通は思いますよね。多分エウリピデスもそう思ってたと思います。だからこそ、僕は「生まれつきの才能」ですべてを説明しようとする意見(あいつの成績が良いのは生まれつきのセンスだ、など)には反対である。そうではなく、「教育」が持つ力、人を変化させ、より良い生を歩むようにする奇跡、を信じています。ヒッポリュトスは結局悲惨な苦しみを味わい、肉は裂け骨は砕ける苦痛の中、ようやく「本当の思慮深さ」を手にする(と僕は解している)のだけど、一般的な「教育」も、ある意味それくらいのショックはあると言える気がする。結局、でも、自分に人を教育する資格はあるのか?と自問してもなかなか自信たっぷりに肯定することはできない。ムムム……

ギリシア語ビギナーの道②

 高校の時の古文の授業をふと思い出す。──古文の先生(なぜか僕のことを滅茶苦茶嫌っていた)は言った。「『みる』『あふ』という動詞は『結婚すること』を意味します。覚えておくように」彼は黒板にチョークでそう書いた。そうして授業は進んでいく。

 

 「えっ?」と僕は思った。「なんで見る/会う=結婚するになるんだ?!」僕は頭を抱えたが、その時は勉強よりも他にやること(ゲームとか小説を読むとか)で忙しかったのでスルーして、授業を放棄し、古文=ヨクワカラナイモノと判断停止をしてゲームとか読書とかに没頭していた…(その割にテストはまあまあの点数だったが)。確かに、その疑問は、今思っても当然の疑問だったと思う。その問いは、その当時の、つまり平安時代の日本の文化的背景を知っていなければわからないことだったのだ。

 

 さて、今古語辞典で「みる」「あふ」を引いてみると「さやうならむ人をこそめ、似る人なくもおはしけるかな」(そのような人と結婚したい、似ている人もなく素晴らしい方だ」(源氏)「この世の人は、男は女にあふことをす」(この世界の人は、男は女と結婚するということをする」(竹取)という例文が出ているのを確認した。ちなみにこの源氏の台詞は藤壺のことを指しているらしいですね。竹取の方は翁が「おいお前もそろそろ結婚してワシを安心させてくれ~~~」って語るシーンです。とまあこんな風に「みる」「あふ」は当たり前に「結婚する」という訳が当てられている。和歌の例を見てよう。

 

逢ひ見ての後の心に比ぶれば昔はものを思はざりけり(藤原敦忠

 

いや~これマジでいい歌だな~~ というのはさておき、この逢ひ見はもちろん「一目見る」という意味ではないのだ。彼(敦忠)はこの歌で、恋人に何度も何度も手紙を送り、やっとのことでその女性の家を訪ね一夜を過ごし、その甘く切ない逢瀬を振り返りながら恋の心情を詠んでいる、、、ということを読み解かなければならない(ちょっと解釈が主観的すぎるかもしれない)。それにはまず、そもそも、「結婚」という制度はこの当時今のようには確立していなかったことを知っていなければならないのだ(もしかすると、「みる/あふ」の訳としては「共寝をする」が適切かもしれないですね)。だから、言葉の学習は、その言語が「当たり前」としている文化背景も勉強しなきゃいけない。

 

 例えば、伊勢物語の初段の男は垣根の間から女性を見て恋文を贈るわけだが、これは現代的にみると「えっ…隙間から家の中見るとかキモイ…」となりかねないが、文化背景を踏まえるとこれは「垣間見」という風流な行為で、今でいう「ノゾキ」とはまた違うものである。それやはり文化背景を知ってこそ理解されることだ。…語学と文化の関わりは侮れない。

 

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西洋古典文学の「場」

 

 ひょんなことから今、懇意にしていただいている教授の別荘に逗留中だ。君、僕の別荘はひどく静かな所で勉強に最適なんだけど、GWの間泊まっていかないかい、その代わり洗濯や掃除、庭の手入れなんかをしてほしいんだがと頼まれ二つ返事で承諾した。実際、ここだと通常の倍以上勉強が捗る(東京と違ってアパートの隣人が深夜に酒を飲み狂乱するのが聞こえてくることもない)。おかげでいつもは二日、三日はかかるギリシア語の予習も一日で終わり、最近始めたヘブライ語(現代のではなく聖書に使われている方)も、亀のようなスピードだがなんとか進んだ(Liddle & ScottとBrown-Driver-Briggsを背負って来るのは辛かったが)。

 

 授業の課題もあらかた片付いたので、先生の本棚を物色し蔵書を渉猟していると、平田松吾先生の『エウリピデス悲劇の民衆ーアテナイ市民団の自他意識ー』があったので少しだけ読んだ。現在僕はこの平田先生の授業を履修中というのもあって読んでみたかったのだ。「エウリピデス悲劇の民衆」の「民衆」は、いわゆる「非市民」と呼ばれる者たち(奴隷や女性)、そして「下層市民」という今まで注目されてこなかった、古代ギリシアの市民層をも含める。本書は、「文学」と現在称されている営みに対して疑問を投げかけ、文学作品がパフォームされた社会的・政治的背景をも踏まえて、つまりは「文学テキストをその政治・社会背景(コンテクスト)との関わりにおいて」(5頁)研究する、という立場をとっている。そのコンテクストとは、具体的には、ギリシア悲劇が上演されていた時のアテナイの社会、悲劇上演の「場」──大ディオニュシア祭と呼ばれる祭りの舞台、悲劇の作者、それを演じる俳優、そして聴衆たち──などを含める。これはとても重要な指摘だった。このようなコンテクストを踏まえければ文学解釈は空虚なものになってしまいかねないだろう。この本は古典文学研究の様々なヒントを与えてくれたので、とてもいい収穫になった。

 

 この本から刺激を受け、これからの自己課題として三つ定めた。①西洋古典文学の場(コンテクスト)、②西洋古典文学の文献学(編集文献学)、そして③「西洋古典文学におけるジェンダー」。①は、ギリシア悲劇に関してはアテナイの社会について学ばなければならない。また僕が興味を持っているのはホメロス叙事詩のコンテクスト──詩人が語り聴衆が楽しむ「場」とその社会・政治背景──がいかなるものだったか、ということだ。これについてはまた、先日書いた『ホメロスイーリアス」への招待』を読んで示唆を受けようと思う。②については、西洋古典文学のテキストがいかにして今僕らのもとにあるのか、という歴史についてである。これは結構骨なのでそろそろ本腰を入れて調べようと思う。③については、これまでちゃんと勉強してこなかったフェミニズム=テクスト解釈理論についてちゃんと調べようと思う。最近初めて女性が『オデュッセイア』を英訳したというのを知ったので、大学図書館に購入申し込みをしたら買ってくれた(今は到着待ち)のでこれと従来の『オデュッセイア』の英訳を読み比べてみようかなと考えている。

 

明日から東京に戻るので、帰ったら自分に課した課題を少しづつこなしていこうと思う。また図書館に籠ることになりそうです。。。